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| 2019年1月2日(水) in徳島 四国霊場巡りの第一歩 |
徳島へ引っ越した友達の家に2泊したお正月二日目はもう大阪へ帰る日。午後2時のバスだから、午前中だけの自由時間。せっかくだから四国霊場を訪ねようということになったが、第一番霊場周辺は電車の便が極端に悪く、一番近い第14〜16番霊場を巡ることになった。7時過ぎの電車に乗り府中(?)駅で下車し、歩き出す。携帯のナビを片手に30分弱で最短のお寺・観音寺に着く。拝願し、朱印帳がないので、納経所で300円で個別の朱印をいただく。いずれ本格的に霊場巡りを始めた折には正規の朱印帳に張り付けるつもり。のどかな田んぼ道を歩いて次のお寺、国分寺へ行き、更に常楽寺もクリアーして、帰りは電車の時間に余裕が危うく、約4kmをひたすら歩く。昨日と言い、今日といい、お正月からかなりの距離を歩き続けている。万歩計を持っているNさんによれば15,000歩だと。何とか無事に府中駅に着き、予定通りに徳島駅へ戻り、最後の昼食を共にして、二人は大阪へ、Nさんは市内の自宅へと夫々バスの人となった。 | |
![]() 第16番霊場 光耀山 千手院 観音寺 本堂 第15番霊場国分寺 鐘つき堂 |
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![]() 第15番 薬王山 金色院 国分寺 本堂 第14番霊場 盛寿院 延命寺 常楽寺 本堂 |
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四国霊場巡りツアー第1回目![]() お参りに必要な物品 線香・?燭・ライター・数珠・供養 祈願の札・般若心経・納経帳 輪袈裟(下の横長の物) ![]() 帰りの淡路SAから遠くの明石大橋 |
2019年5月7日(火) in四国88ケ所霊場巡り第1回目 @番・霊山寺〜E番・安楽寺 今年のお正月に偶然、徳島の友達の家に招かれ、皆で近くの霊場14〜16番をお参りして回ったのがきっかけとなり、丁度年頭でもあり、今年の一大目標として、四国88ヶ所霊場巡りをやり通すことを決意した。ネットで調べると、阪急トラピックス社で5月を第1回目として1年がかりで88ケ寺を巡り終えるコースがあったので、早速申込み、今日がその第1回目のスタートとなった。今までにほとんどお寺参りとは縁がなかった私なので、何一つ予備知識もなく、ただ、添乗員から指示されるままに、必要仏品を揃え、作法を教わっての霊場巡りデビューとなった。 大阪梅田・芸術劇場前7:30→淡路SA休憩→鳴門大橋→@番 霊山寺 →A番 極楽寺→(昼食)→B番 金泉寺→C番 大日寺→D番 地蔵寺→E番 安楽寺→淡路SA→20:30大阪梅田 第一番 竺(ジク)和山 一条院 霊山寺 霊山寺の鳥居をくぐると、あらかじめバスの中で配られた冊子を参考にして、先ず自分に必要な仏品を揃える。私は、「納経帳・輪袈裟・数珠」の3点を買った。他に白衣・笠・さんや袋等があったが、できるだけ普段の服装のままで巡りたく、最低限度の装束とした。さて、参拝は手洗水から始まる。 【手洗水作法】 右手で柄杓を取り水を入れる→1/4で左手を洗い→左手に持ち替え→1/4で右手を洗い→更に少量を右手に溜めて口をすすぎ→両手で柄杓を縦にして残った水を下に流し柄を洗い→右手で柄杓を元に置く。 本堂へ行き→蝋燭に火をつけ→線香を立てる→供養・祈願のお札を納札箱に入れ→お賽銭を入れ→数珠を手にかけて拝む。→祭壇を降り、全員が参拝を終えてから→全員ひと固まりとなって般若心経を唱える 次に太師堂へ行き、本堂の場合と同じ手順で最後に般若心経を唱えて、第一番札所の参拝を終了。その後、第一番寺に限り、心和む法話を聞くことができた。 バスに戻り、第A、B、C、D、E番の参拝を終える頃にはもう陽が西に傾きだしていた。 第二番 日照山 無量寿院 極楽寺 第三番 亀光山 釈迦院 金泉寺 第四番 黒厳山 遍照院 大日寺 第五番 無尽山 荘厳院 地蔵寺 第六番 温泉寺 瑠璃光院 安楽寺 |
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第一番 竺(ジク)和山 一条院 霊山寺 |
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![]() 第二番 日照山 無量寿院 極楽寺 |
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![]() 第三番 亀光山 釈迦院 金泉寺 |
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![]() 第四番 黒厳山 遍照院 大日寺 |
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![]() 第五番 無尽山 荘厳院 地蔵寺 |
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![]() 第六番 温泉寺 瑠璃光院 安楽寺 |
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| 2019年6月24日(月) in四国88ヶ所霊場巡りツアー 第2回目(第7番〜第11番) |
お遍路とは、四国88ヶ所の札所を拠点として四国全体を巡礼する行為。お大師様(弘法大師)は生誕の地・四国で修行し、自らの生き方を考え、理想を求め、そのことをすべての人に伝えたいと思われた。88の寺院を遍路することで、自ずと心の変革をなし、自らの能力・才能を生かし切る生き方を一人一人が目指し、努力するようになるという。今回は第2回目。第7番〜第11番までを逆コースで行く。 |
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| 【第11番】金剛山 一条院 藤井寺(でら) 過去2度の火災に遭い、万延元年・1860年に再々建された。弘仁6年、弘法大師は42歳の厄年となり衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造し、堂宇を建立した。現在、国の重要文化財に指定。次の十二番霊場・焼山寺まで、往古のままの「遍路道」が続いている。 ![]() 本堂手前からのお遍路山道 本堂 太師堂 鐘つき堂 |
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| 【第10番】得度山 灌頂院 切幡寺(じ) 切幡山の中腹に境内があり、四国霊場最大の標高差155mを登り、大塔からの眺望は素晴らしい。(今回は皆さんに合わせ乗合タクシーを利用し、楽をした)国指定重要文化財である、本尊は千手観世音菩薩。本堂の横には機織りの乙女が即身成仏したという伝説の「幡切り観音」像がある。 本堂 幡切り観音 太師堂 鐘つき堂 |
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| 【第9番】正覚山 菩提院 法輪寺 古くは「白蛇山法林寺」と称され、北へ4kmの山間の「法地ケ渓」に壮大な伽藍を誇っていた。弘仁6年、弘法大師が巡教されていた時に仏の使いの白蛇を見つけ、涅槃釈迦如来像を彫像し、本尊として寺を開基したという。現在の寺は正保年間に当時の住職が転法林で覚りを開いたとされ、今の「正覚山法輪寺」と改めた。 ![]() お寺への入口 手洗い所 本堂 大師堂 |
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| 【第8番】普明寺 真光院 熊谷寺 四国霊場の中で最大級の仁王門を構える。弘法大師が修行をされていた時に、紀州の熊野権現が現れ、お告げにより5.5cmの金の観世音菩薩像を授けて虚空遥かに去った。大師はその場にお堂を建て、等身大の千手観音像を彫象し、胎内に金の尊象を納めて本尊とされた。 ![]() 仁王門は左右に極彩色の二体で構えている。 本堂 太師堂 |
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| 【第7番】光明山 蓮華院 十楽寺 元は北へ3km奥の十楽寺谷の堂ケ原にあったという。弘法大師がこの地に逗留した時に阿弥陀如来を感得し、如来像を刻み、本尊として祀られたと伝えられている。その際に、生・老・病・死など人間の苦難に10の光明と、楽しみが得られるようにと、「光明山十楽寺」の寺名を授けられた。現在の本堂は平成6年に建立され、本堂左前にある「治眼疾目救蔵地蔵尊」は眼病・失明の治療に霊験があるとされている。また、中門遍照殿では、良縁結びと悪縁を切る「愛染明王」が祀られている。 ![]() 中門(愛染明王を祀る?) 本堂 大師堂 お地蔵様 |
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| 2019年7月25日(木) 四国88ヶ所霊場巡り (三回目・第12番〜15番) |
梅田出発のツアーが思いの外盛況で、今回はキャンセル待ちで直前に参加が決まった。いつでも行けるようにと準備をしていたつもりが、いざ当日になると、貯めておいたお賽銭の五円玉やボールペンを忘れたり、また、供養・祈願のお札に住所・氏名・祈願の文言を書き忘れていたりと、何かと不備があり、反省しきりとなった。 今回は第12番〜15番の4ケ寺の参拝だが、最初は第13番の大日寺から始まった。各寺参拝はしっかり気を入れて拝むのだが、私の場合、プラス写真を撮る時間が要り、他の皆さんよりかなり忙しい。しかもバスの中では毎回違う方と隣り合わせて話が盛り上がり、退屈する暇がなく、密度濃い一日となった。合間のガイドさんの興味深いお話も聞き捨てならない。今回はお正月のお鏡餅の三種の神器の話が記憶に残った。三種の神器とは、「鏡・剣・勾玉」だが、先ず鏡餅の「鏡」、間に挟む竹に挿した干し柿が「剣」、上に置く橙が「勾玉」を表すのだそうだ。ホント?次に、春のお彼岸に供える植物は「牡丹」、それでは秋のお彼岸は?→「萩」とすぐ分かった。だから春はぼた餅、秋はおはぎなのだ。では、お盆は?→??正解は「ほおずき」。などとクイズもあって結構楽しい。ま、今回は隣席の方に五円玉を交換していただいたり、ペンをお借りしたりと大変お世話になりました。有難うございました。 |
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| 【第13番】大栗山 花蔵院 大日寺 弘法大師が「大師が森」という地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられる。寺名の由来もこの縁起による。ただ戦国時代の「天正の兵火」により堂塔はすべて罹災している。その後、江戸時代前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建され、諸国に国の総鎮守・一の宮が建立されたときに、大日寺は別当寺として同じ境内にあった。しかし一の宮の本地仏は行基菩薩作の十一面観音像とされており、同じ境内であったため、明治の神仏分離令により神社は独立し、一宮寺は大日寺と元の寺名に変えたが、もともとこの寺にあった大日如来像は脇仏となり、十一面観音像が本尊として祀られている。 見どころとして、ぼけ封じ観音やしあわせ観音(樹齢100年をこえる 巨木の側にあり、合掌している極彩色の小さな観音像)がある。 |
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![]() 大日寺の入口 本堂 大師堂 しあわせ観音 |
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| 【第12番】摩廬山 正寿院 焼山寺 その昔、毒蛇が棲み天変異変の災いをなし、人畜に多大の被害を与えていた。弘法大師が此地開山の為に登られる時これを妨げるべく、満山火の山となしたが、大師は印を結び真言を誦して登ると、法力により火は順次消えた。9合目に至ると、岩窟から毒蛇が正体を現したが、虚空蔵菩薩の加護により毒蛇を岩に封じ、其の上に三面大黒天並びに元頭天王を自ら彫刻安置した。以来諸人安楽を得、焼山寺と称し、山号を摩廬山と称した。摩廬とは梵語で水輪の意で火伏せの山号である。三面大黒天は、災難除け、五穀豊穣、福徳神として霊験大という。 寺は焼山寺山(標高938メートル)の8合目近くにあり、四国霊場で2 番目に高い山岳札所。奥の院には、蔵王権現神変大菩薩杖立権現を祀る 四国遍路の最難関と言われ、11番札所藤井寺からの「遍路ころがし」と言われると工程が12.9km続くが、現在は山上まで車道が通っている。遍路の祖・衛門三郎が弘法大師空海と会うことが出来たのは、この寺だと言われ、近くには四国遍路発祥の地である衛門三郎杖杉庵がある。 |
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![]() 焼山寺の入口 本堂 大師堂 衛門三郎・杖杉庵 |
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| 【第14番 盛寿山 延命院 常楽寺】 四国霊場のなかで唯一、弥勒菩薩を本尊としている。弥勒菩薩は56億7千万年の後まで、衆生の救済を考え続けて出現するといわれる未来仏である。とくに縁起では、弘法大師が42歳の厄年のころ、この地で真言の秘法を修行していたときに、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。大師はすぐに感得し、そばの霊木にその尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。後に、大師の甥・真然僧正が金堂を建て、また祈親上人によって講堂や三重塔、仁王門などが建立されて、七堂伽藍がそびえる大寺院となった。その後「天正の兵火」により焼失したが復興、文化15年(1818)に低地の谷地から石段を約50段のぼった現在地の「流水岩の庭」近くに移った。奇形な岩盤の断層が重なって、自然の美しさにとけ込む独特の魅力を醸し出している。また、本堂前には、アララギ大師・地蔵菩薩像(子供の寝しょうべん、夜泣きなどの治癒に祈願)が坐し、1〜18歳までの子供たちを支援している四国霊場ただひとつの児童養護施設がある。 |
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![]() 常楽寺 奇形な岩盤の断層に立つ本堂 大師堂 後の大木の股に坐すアララギ大師→拡大図 |
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| 【第15番】薬王山 金色院 國分寺 四国霊場には四県に国分寺があり、その最初の札所が「阿波國分寺」である。聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられている。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。創建当初は法相宗として寺領は二町四方で、金堂を中心に七重塔も建つ壮大な七堂伽藍が整っていた。ここからは塔の礎石などが発掘されており、徳島県の史跡に指定されている。 弘法大師が弘仁年間(810?24)に四国霊場の開創のため巡教された際に、宗派を真言宗に改めている。その後、「天正の兵火」により焼失し、寛保元年(1741)に阿波藩郡奉行、速水角五郎によって伽藍が再建されていらい、現在の禅宗・曹洞宗寺院となっている。 |
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国分寺の入口 現在本堂は修理中につき、仮本堂にて参拝 大師堂 |
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| 2019年8月29〜30日 四国霊場巡り(一泊2日) 第16番〜22番 |
四国霊場巡りも4度目となり、前回までは日帰りツアーだったが、今回から一泊2日となった。四国も遠方になると更に二泊3日の回もあるようだ。ともあれ、今回は第16〜23番札所の8ヶ寺を巡る。残念ながら、台風の影響で九州の大水害が報道されている最中、四国でも雨の確率がほゞ80%と、先ず雨を避けられない様子。仕方ない、これも霊場巡りに与えられた試練というべきか・・・。 宿泊は徳島市内ということで、巡る順番も、 8/29(木) 17番→16→20→21番、 8/30(金) 23番→22→19→18番 となった。 ところが、いざ現地に行くといずれも曇りで、二日目最初の第23番のみ、本堂までの数分間小雨で傘をさしたが、それ以外は全く傘なしでOK。多分参加者は皆、なんともラッキーなお計らいだと神仏さまに感謝したのではないだろうか。ツアー4度目となると私もかなり慣れてきて、各寺のユニークな個性が面白い。特に第20番鶴林寺は自分の名前が「田鶴子」と鶴にご縁があり、寺の随所に鶴が活躍しているのが何ともいい気分。また第23番では厄坂での階段の一段ごとに一円玉を置いていくという話や、22番の平等寺では本堂の中の撮影が許され、写真を撮りまくった等々。バスの隣席の方とは自分の分身かと思う程気が合って、話が尽きなかったり・・。 |
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| 8月9日(木) 【第17番 瑠璃山 真福院 井戸寺】 真言宗善通寺派 本尊:七仏薬師如来 開基:天武天皇 創建:白鳳2年(673) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか (歴史・由来) 7世紀後半の白鳳時代は、清新な日本文化が創造された時期で、律令制もようやく芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。この国司に隣接して、天武天皇(在位673?86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。寺域は広く八町四方、ここに七堂伽藍のほか末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり、隆盛を極めた。本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多く、聖徳太子の作と伝えられる。また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、檜に像高約1.9メートルの十一面観音像を彫って安置した。この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、現在、国の重要文化財に指定されている。大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。その後寺は焼失、罹災等もあり、本堂が再建されたのは万治4年(1661)。 (見どころ) 面影の井戸 大師が掘った伝説の井戸で、覗き込んで自分の姿がうつれば無病息災、うつらなかったら3年以内の厄災に注意する。 石造の大師像で「水大師」ともいわれ、5日、7日などと日数を限って日参すればご利益ありとされ、日限大師と呼ばれている。 仁王門 阿波10代藩主・蜂須賀重喜公が大谷別邸から移築し寄進した門 |
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![]() 井戸寺の本堂 大師堂 日限大師 面影の井戸 |
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| 【第16番 光耀山 千手院 観音寺】 高野山真言宗 本尊:千手観世音菩薩 開基:弘法大師 創建:天平13年(741) 真言:おん ばざらたらま きりく そわか (歴史・由来) 寺に伝わる宝物に『観音寺縁起』一巻がある。巻末に「享保十乙秋穀旦 南山沙門某甲謹書」の署名があり、享保10年(1725)に高野山の僧が筆写したことがわかる。その冒頭で「南海道阿波国名東郡観音寺邑 光耀山千手院観音寺縁起」と書き出し、観音寺が弘法大師によって創建され、大師自ら千手観音像を彫造して本尊にしたこと、また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだことや、徳島藩主の蜂須賀綱矩公が新築・移転に協力したことなどの寺史が記されている。この『縁起』とは別に、寺伝では聖武天皇(在位724?49)が天平13年、全国68ヶ所に国分寺・国分尼に寺を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされている。弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816)のころで、本尊像などを彫造して再興し、現在の寺名を定めたとされている。 その後、様々の事変を越え、また罹災等もあり、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659)に宥応法師によって再建され、現在に至っている。 大正2年ころ、両親につれられて参拝した盲目の高松伊之助さんという方が、本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納したという話がある。 遍路道に面した和様重層の鐘楼門は、むかしの面影を残し堂々とした風格がある。 (見どころ) 夜泣き地蔵 子供の夜泣きを止めてくれる地蔵尊で、子供の病気平癒、健康と成長を祈願する。 絵馬 炎に包まれた女性が描かれた奉納額で、本堂内に掲げられている。明治時代にあった遍路の実話という 天狗久 人形浄瑠璃の人形師名。国府町は人形師を多く輩出している。 |
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![]() 観音寺の鐘楼門 本堂 大師堂 夜泣き地蔵 |
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| 【第20番 霊鷲山 宝珠院 鶴林寺】 高野山真言宗 本尊:地蔵菩薩(伝弘法大師作) 開基:弘法大師 創建:延暦17年(798) 真言:おん かかかび さんまえい そわか (歴史・由来) 標高470メートルの鷲が尾山頂にあり、遠く紀州や淡路島や、遙かに太平洋を眺望できる風光明媚な霊山である。樹齢千年を超すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っている。寺伝によると延暦17年、桓武天皇(在位781・806)の勅願により、弘法大師によって開創された。大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた。この情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩像を彫造、その胎内に5.5センチぐらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたといわれる。また、境内の山容がインドで釈尊が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ていることから、山号は「霊鷲山」と定められた。以来、歴代天皇の帰依が篤く、また源頼朝や義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将にも深く信仰されて、七堂伽藍の修築や寺領の寄進をうけるなど大きく栄えた。阿波一帯の寺が焼失した「天正の兵火」にも、山頂の難所にあるためか難を免れている。お鶴さんと親しまれ、山鳥が舞う大自然そのままの寺である。 (見どころ) 波切り地蔵・地蔵菩薩立像 徳島県最古の丁石 鶴林寺の室町時代の年号を刻んだ丁石が、本堂から遍路道沿いに11基残っている。1丁は約109メートル。 三重塔(県指定重要文化財) |
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![]() 鶴林寺の山門(左右に鶴の像) 本堂 本堂前の左右に鶴の阿吽像 大師堂 |
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| 【第21番 捨心山 常住院 太龍寺】 高野山真言宗 本尊:虚空蔵菩薩 開基:弘法大師 創建:延暦12年(793) 真言:のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか (歴史・由来) 「西の高野」とも称される。四国山脈の東南端、標高618メートルの太龍寺山の山頂近くにある。樹齢数百年余の老杉の並木がそびえ、境内には古刹の霊気が漂う。弘法大師が19歳のころ、この深奥の境内から南西約600メートルの「舎心嶽」という岩上で、100日間の虚空蔵求聞持法を修行されたと、大師の著作「三教指帰」に記されている。虚空蔵求聞持法とは、真言を百万遍となえる最も難行とされる修法。縁起によると延暦12年、桓武天皇(在位781?86)の勅願により堂塔が建立され、弘法大師が本尊の虚空蔵菩薩像をはじめ諸尊を造像して安置し、開創した。山号は修行地の舎心嶽から、また寺名は修行中の大師を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。 皇室や武家の尊信が厚く、子院12ヶ寺をもつほどに栄えていた。天正の兵火での焼失や何度か罹災したが、その都度藩主の保護をうけ再建されている。仁王門は鎌倉時代の建立で、他の堂塔は江戸時代以降に復興。徒歩では、中腹の駐車場から坂道を30分も要し、四国巡礼者にとって、屈指の難所であったが、平成4年ロープウエーが開通した。 (見どころ) 舎心嶽 全長2,775メートルで西日本最長。岩の上にブロンズ製の「求聞持修行大師像」が東向きに坐っている。舎心は「心がとどまる」の意。 ロープウェイ 丁石 南北朝時代のもの。18基残っているうち、11基が徳島県文化財指定。 |
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![]() 太龍寺の本堂 大師堂 ロープウエイ 岩の上の求聞持修行大師像 |
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| 8月30日(金) 【第23番 医王山 無量寿院 薬王寺】 高野山真言宗 本尊:厄除薬師如来(伝弘法大師作) 開基:行基菩薩 創建:神亀3年(726) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか (歴史・由来) 「発心の道場」といわれる阿波最後の霊場。高野山真言宗の別格本山でもある。厄除けの寺院としては全国的に有名で、「やくよけばし」を渡って本堂に向かう最初の石段は、「女厄坂」といわれる33段、続く急勾配の石段「男厄坂」が42段で、さらに本堂から「瑜祇塔」までは男女の「還暦厄坂」と呼ばれる61段からなっている。各石段の下には『薬師本願経』の経文が書かれた小石が埋め込まれており、参拝者は1段ごとにお賽銭をあげながら登ると言われる。縁起によると、聖武天皇(在位724?49)の勅願によって行基菩薩が開創したとされている。弘仁6年(815)弘法大師が42歳のとき自分と衆生の厄除けを祈願して一刀三礼し、厄除薬師如来坐像を彫造して本尊とし、厄除けの根本祈願寺とした。大師は、この厄除け本尊の功徳を平城・嵯峨・淳和天皇の3代に奏上し、各天皇は厄除けの勅使を下して官寺とされた。 文治四年(1188)、火災で諸堂を焼失したが、厄除け本尊は光を放ちながら飛び去り、奥の院・玉厨子山に自ら避難した。のちに後嵯峨天皇が伽藍を再建して新しい薬師如来像を開眼供養すると、避難していた本尊が再び光を放って戻り、後ろ向きに厨子に入られたと伝えられる。以来、「後ろ向き薬師」として秘仏にされている。境内には吉川英治著『鳴門秘帖』、司馬遼太郎著『空海の風景』の石碑がある。 (見どころ) 瑜祇塔(ゆぎとう) 高さ29メートルの楼閣。上方が四角、下方が円筒形で一重の塔。天と地の和合を説く『瑜祇経』の教えに基づき、屋根に五柱の相輪が立つ 厄坂の賽銭 お賽銭をあげながらお参りすると、身に降りかかる厄難が落ちるという 肺大師 本堂左手にあり、ラジウムを含んだ霊水で、肺病などの諸病に効くという云われがある。 |
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薬王寺の本堂 大師堂 厄坂 瑜祇塔 |
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| 【第22番 白水山 医王院 平等寺】 高野山真言宗 本尊:薬師如来 開基:弘法大師 創建:弘仁5年(814) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか (歴史・由来) 弘仁5年(814年)、弘法大師がこの地を訪れ禅定に入られたころ、心に薬師如来さまの姿が浮かんだので、、「あらゆる人々の心と身体の病を平等に癒し去る」との御誓願を立てられました。大師は修行を志し加持水を求めて井戸を掘られたところ、乳のごとき白い水が湧き溢れました。その霊水で身を清め、百日間護摩行を続け、先のお薬師さまの姿を刻まれて本尊とし、山号を白水山、寺号を平等寺と定められました。 以後、寺は栄えたが江戸初期頃までに一度興廃し、1680年に伊予の中興一世照俊阿闍梨らによって再興され、現在に至っている。現存の本堂が再建されたのは1737年、大師堂は1824年建立。 大師が掘られた霊水の湧く井戸は男厄除坂の左下にあり、どんな日照りにも枯れることなく湧き出ており、現在は無色透明で飲用に適し?、万病に効く「弘法の霊水」と言われている。 (見どころ) 本尊・薬師如来像 天井絵 箱車 大正・昭和時代に医者に見放された足の不自由な人が巡礼を始め、この寺で霊験を授かって足が治り、記念として本堂に奉納された。 |
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![]() 平等寺の門・左右に仁王様 本堂・寺中に5色の紐が通っている 御本尊・薬師如来像 大師堂 |
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![]() 珍しく本堂の中の撮影可 天井で睨む竜虎像 左・虎 右・龍 天井の絵が見事 |
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| 【第19番 橋池山 摩尼寺 立江寺】 高野山真言宗 本尊:延命地蔵菩薩 開基:行基菩薩 創建:天平19年(747) 真言:おん かかかび さんまえい そわか (歴史・由来) 高野山真言宗の別格本山。「四国の総関所」として四国八十八ヶ所の根本道場といわれ、また「阿波の関所」としても知られる。縁起によると、聖武天皇(在位724?49)の勅願で行基菩薩によって創建された。勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈って、念持仏として5.5cmの小さな黄金の「子安の地蔵尊」を彫造した。これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立した。弘仁6年(815)、弘法大師が当寺を訪れ、このご本尊を拝し、あまりに小さく後世になって失われる恐れがあると、自ら一刀三礼をして新たに像高1.9mもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。このときに寺名を「立江寺」と号した。当時は現在地より西へ400mほど山寄りの景勝地にあり、七堂伽藍を備えた巨刹であった。その後「天正の兵火」で壊滅的な打撃を受けたが本尊だけは奇しくも難を免れ、後に、阿波初代藩主・蜂須賀家政公の帰依をうけ、現在地に再建された。また、昭和49年の祝融の災にもご本尊は救出されている。昭和52年に再建された本堂の格天井画(286枚)は、東京芸術大学の教授等により花鳥風月などが描かれており、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する文化財として高く評価されている。寺伝の「釈迦三尊図」は、国の重要文化財指定品である。 邪悪心を裁く関所寺である反面、「子安のお地蔵さん」としても親しまれている。 (見どころ) 本堂・観音堂の絵天井 肉付き鐘の緒の黒髪堂 大師堂右手にある小祠。不義をしたお京という女がこの寺に詣り懺悔すると、お京の髪の毛が逆立ち、鐘の緒に巻き上げられて残ったという伝説のお堂 白鷺橋 寺の手前。行基菩薩が白鷺に暗示をうけたと伝えられる橋 |
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![]() 立江寺の門 本堂 大師堂 黒髪堂・ガラス格子中に不義女の髪 |
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| 【第18番 母養山 宝樹院 恩山寺】 高野山真言宗 本尊:薬師如来 開基:行基菩薩 創建:天平年間(729?749) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか (歴史・由来) 創建は聖武天皇の勅願により、行基菩薩が草創して、当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。本尊には行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置されている。災厄悪疫を救う女人禁制の道場で、十九番霊場に向かって下る花折り坂から上には、女性は入れなかった。弘仁5年(814)ころ、弘法大師がこの寺で修行をしていた時に、大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から訪ねてきたが、寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて7日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母君を迎えることができた。やがて母君は剃髪をして、その髪を奉納されたので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め、自像を彫造して安置され「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われた。 その後寺は焼失しているが、江戸時代になって阿波藩主の庇護をうけて繁栄し、現在の本堂や大師堂は文化、文政年間(1804?30)に建立された。境内には玉依御前を祀る小堂があり、母君に孝養をつくして、大師が植樹したびらんじゅは、県の天然記念物にもなっている。母君を慕う大師の心が、今尚、宿っているような寺である。 (見どころ) 玉依御前の剃髪所 大師堂の手前「大師御母公剃髪所」の石碑と小さなお堂が建ち、大師作と伝えられる「御母公像」、母君の髪の毛が安置さ れている 弘法大師像 大師自ら彫造した像で、現在、大師堂の本尊とされている 「源義経上陸の地」石碑 境内の山裾にあり、近くの神社に義経が弓を引くいている銅像 |
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![]() 恩山寺の入口 本堂 大師堂 母・玉依御前の剃髪のお堂 |
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| 2019年9月30日〜10月1日 四国霊場88ケ所巡り 第5回目・第24番〜30番 ![]() 室戸岬から見下ろした海 |
月に一度の霊場巡りだが、日の経つのが早く、先月分を整理できた頃にはもう次の回が回ってくるような気がする。前月からは一泊二日となり結構大変。今回は第5回目で、第24番〜30番まで。巡る順番は前回同様逆コースで、30番→24番となっている。 9/30(月)大阪7:40→鳴門大橋屋→徳島自動車道→(11:30昼食)→高知自動車道→13:15善楽寺→国分寺→15:00大日寺→16:30龍馬の宿・南水(泊) 10/1(火)宿7:30→9:20神峯寺→10:55金剛頂寺→11:50津照寺→12:35最御崎寺→休憩2か所→19:30大阪 お寺の数は初日3ケ寺、二日目4ケ寺の計7ケ寺。バスの移動時間が往き5.5時間、帰り8時間と半端なく、参拝している時間より遥かに長かった。それでも個人で行くことを思うとずっと効率的だ。今回は、人気の室戸岬や高知市街を訪れるのもちょっと魅力的。坂本龍馬や、はりまや橋など少し観光気分もあったような・・。 各寺ごとに味わいがあり、今回は2ケ寺で鐘をついてみた。ゴ〜ンと空気を震わす音がなんともたまらない。残念なのは、本堂など中ではゆっくりを本尊を見ていられないし、ましてや写真をとるのはご法度。今までに許されたのは2ケ寺のみ。私的には何とかご本尊様を撮って帰りた〜い。 |
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→ ![]() 「土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た〜」 市内には市電が走る。宿は「龍馬の宿・南水」 |
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![]() 一日目の昼食 夕食 二日目の朝食 |
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| 【第30番 百々山 東明院 善楽寺】 宗派:真言宗豊山派 本尊:阿弥陀如来 開基:弘法大師 創建:大同年間(806?810) 真言:おん あみりた ていせい からうん 【歴史・由来】 高知城へ約6km、JR高知駅まで約kmというこの辺り一帯は、神辺郷といわれ、土佐ではもっとも古くから栄えた地方である。 縁起によると、桓武天皇の在位(781〜806)後の大同年間に弘法大師がこの土地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高嶋大明神の別当寺として善楽寺を開創され霊場と定められた。以来、神仏習合の寺院として栄えている。特に土佐2代藩主・山内忠義公の頃には興隆・繁栄を極めた。しかし、明治維新による廃仏毀釈の難で寺運は一変し、昭和4年に再興されるまで苦難の日々が続いた。その後、2ケ寺で納経出来るなどの混迷を経て、平成6年1月1日に善楽寺は第30番霊場とされ、現在に至る。(本堂は昭和58年に改築) 本堂左隣の大師堂は大正時代の建立で、厄除け大師として知られ、厄年にお参りしたり、交通安全などを祈願すると霊験あらたかだと伝えられる。境内には「子安地蔵堂」があり、弘法大師作と言われるやさしいお顔の地蔵尊が祀られている。難産の妊婦を大師が祈願し安産させたという伝説があり、子宝祈願・水子供養に参詣する人も多い。 【見どころ】 梅見地蔵:子安地蔵堂の左、文化13年の建立。首から上の病や悩みにご利益あり。近年では脳の病気、ノイローゼの快癒から合格祈願をする人 も多い。 天邪気: 境内の手水舎の下で石の手水を支えている邪鬼。天邪鬼は毘沙門天像についている鬼の顔がその原形。 |
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![]() 善楽寺の本堂 大師堂 十一面観音菩薩像 子安地蔵堂 梅見地蔵 |
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【第29番 摩尼山 宝蔵院 国分寺】 |
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![]() 国分寺の仁王門 本堂(金堂)柿葺き・寄棟造り 大師堂 酒断地蔵尊 |
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【第28番 法界山 高照院 大日寺】 |
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![]() 大日寺の門 本堂 大師堂 爪切り薬師 |
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【第27番 竹林山 地蔵院 神峯寺】 |
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![]() 神峯寺の門 長い階段が続く 画面右手には名水が・・ 本堂 大師堂 |
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| 【第26番 龍頭山 光明院 金剛頂寺】 真言宗豊山派 本尊:薬師如来 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 【歴史・由来】 室戸岬から海岸沿いに西北に向かうと、硯が産出するので硯が浦ともいわれる「行当岬」がある。その岬の頂上、原始林の椎に覆われた静寂な所に金剛頂寺がある。室戸三山の一寺院として「西寺」と呼ばれ、朱印も「西寺」と捺される。当寺から4qのところに女人堂と呼ばれる不動堂がある。若き弘法大師はこの間を毎日行き来し修行した霊地であり、行道したことから、「行当」はその名残かもしれない。 縁起によると、大師が平城天皇(806?9)の勅願により、本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建したのは大同2年と伝えられる。創建のころは「金剛定寺」といわれ、女人禁制とされて、婦女子は行当岬の不動堂から遙拝していたという。次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、寺名を改め、さらに次の淳和天皇も勅願所として尊信し、住職は第十世まで勅命によって選ばれ、以後、16世のころまで全盛を誇った。室町時代に堂宇を罹災したが復興ははやく、長宗我部元親の寺領寄進や、江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備された。昭和になって正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」が建立され、平安時代に大師が各地を旅したときのわが国唯一の遺品である「金銅旅壇具」など、重要文化財が数多く収蔵されている。 【見どころ】 霊宝殿 収蔵の木造阿弥陀如来坐像、板彫真言八祖像、銅造観音菩薩立像、金銅密教法具、金銅旅壇具、銅鐘、金剛頂経等すべて国指定重要 文化財。 知光上人御廟 奴草 鯨供養塔 鯨の供養塔。別名「クジラ寺」 一粒万倍の釜 大師が炊いた米が一万倍に増え、人々を飢えから救ったという釜 |
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![]() 金剛頂寺の厄坂(61歳 男坂42歳・女坂33歳&19歳) 厄坂を上りきると山門 本堂 本堂の中(珍しく撮影可) |
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![]() 大師堂 一粒万倍の釜 がん封じの椿 境内から眺めた室戸岬 |
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| 【第25番 宝珠山 真言院 津照寺】 真言宗豊山派 本尊:地蔵菩薩(楫取地蔵) 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 真言:おん かかかび さんまえい そわか 【歴史・由来】 室津港を見下ろす小山の上にたたずむ「津照寺」(しんしょうじ)は、通称「津寺」(つでら)と呼ばれる。弘法大師空海上人が四国御修行の砌、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠(ほうしゅ)に似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻まれ本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号された。 はじめ長曽我部氏の庇護をうけ津寺村と称し、その後山内氏が国主となって、一層の加護を受け、寺院の運営も全て藩営とし、中老格をもって遇され隆盛を極めた。が、明治の改革で地領は政府に没収亦は小作農民に払い下げとなり寺は廃寺となった。荒廃のまゝ約十数年、明治16年に寺名復興を許され今日に至るが、寺域は極度に狭められ、本堂が地蔵堂としてのこり御殿といわれた庫裏の一角が当時小学校として残った。その後小学校は移転され、大師堂は昭和38年、本堂は昭和50年に新築された。 【楫取地蔵(かじとりじぞう)の由来】 |
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![]() 津照寺の入口 鐘楼門兼仁王門(まるで竜宮城) 本堂 大師堂 |
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| 【第24番 室戸山 明星院 最御崎寺】 真言宗豊山派 本尊:虚空蔵菩薩 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 真言:のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきや まりぼり そわか 【歴史・由来】 「修行の道場」とされる土佐最初の霊場。太平洋に突出する室戸岬の突端にある。黒潮のしぶきで鋭角になった黒い岩礁、すさまじい響き、空と海が一体となり襲う洞窟の樹下で、藤衣を被って虚空蔵求聞持法の修法に励む青年・空海がいた。延暦11年(792)、弘法大師19歳のころという。この詳細は、大師が24歳のときの撰述『三教指帰』に次のように記されている。 「…土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」 大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は勅命をうけて再度、室戸岬を訪ねている。虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立、創した。嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代にも寺運は隆盛した。当時は、真言密教の道場とされ女人禁制の寺であり、女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだそうだが、明治5年に解禁された。室戸岬では東西に対峙している26番・金剛頂寺の「西寺」に対し、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれ、納経帳等の寺名には東寺と記される。大師の悟りの起源の地は、南国情緒の室戸阿南国定公園の中心でもある。 【見どころ】 国指定重要文化財:石造如意輪観音半跏像が有名。ほかに木造薬師如来坐像、木造月光菩薩立像、三足の「漆塗盤」。いずれも宝物館にあり。 御厨人窟(みくろど):大師が虚空蔵求聞持法の苦行をしたと伝えられる洞窟。左手が修行用の洞窟、右手が生活用の洞窟 鏡石:斑レイ岩で小石でたたくと鐘のように音を発し、冥土まで届くと言われる(空海の七不思議) 明星石:大師が修行中に、星のように光を放ち、毒龍の妨げを防いだという伝説の石。海岸で斑レイ岩として見かけることができる。 |
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![]() 最御崎寺の門 鐘付き堂・私も鐘をついてみた 本堂 大師堂 |
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![]() 鐘石(空海の七不思議) 室戸岬の灯台 御厨人窟(みくろど)左右に洞窟がある。 青年空海の像 |
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| 2019年10月28〜30日 四国霊場88ケ所巡り 第6&7回目 二泊三日の旅 【一日目10/28】 高知泊 第35番・34番・36番 【二日目10/29】 四万十泊 第33・32・31・37・38番 【三日目10/30】 帰阪 第39・40・41・42・43番 |
四国88ヶ所霊場巡りのツアーは日帰り3回、一泊2日7回、二泊3日1回、そして最終回は満願お礼として日帰りで高野山へお参りして、丁度1年間で終了することになっている。今回はその唯一二泊3日の回にあたる。大阪から見て四国の一番遠い場所、足摺岬周辺の霊場を回るのだ。 【1日目】→4ケ寺、【2日目】→五ケ寺、【3日目】→4ケ寺の計13ケ寺を回る予定。 ところが、初日、高知自動車道に入ってすぐの頃、思わぬアクシデント発生。高知自動車道には全部で19ヶ所のトンネルがあるのだが、その5番目のトンネルにさしかかった時、反対車線で、乗用車と軽自動車の衝突事故があり、炎上してトンネルから黒煙がもうもうと吹き出している。幸い進入する直前で、我々のバスは停車6台目。もう数秒早く走行していたら間違いなくトンネル内へ入り、パニックになっていただろう。パトカーや救急車が行き交う中、約1時間待たされて、それでも無事にトンネルを通過できたのはまさしく不幸中の幸い・・。後刻、宿に落ち着いてテレビのニュースを見ていたら、死者2名の大事故と大々的に報道されていた。 というわけで、初日の予定4ケ寺は一つ減り、翌日へとずれ込んでいくことになった。 ともあれ私的には、観光目的とは大きく異なるものの、前回の室戸岬といい、今回の足摺岬といい、多分もう2度と訪れることはなかろうと思う土地に足を踏みしめ、大海原に向かう灯台を目の当りにできたのには特別な感慨がある。 【一日目】 第35番・清滝寺→第34番・種間寺→第36番・青龍寺 【二日目】 第33番・雪蹊寺→第32番・禅師峰寺→第31番・竹林寺→第37番・岩本寺→第38番・金剛福寺 【三日目】 第39番・延光寺→第40番・観自在寺→第41番・龍光寺→第42番・仏木寺→第43番・明石寺 |
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![]() 高知道 事故トンネル 青龍寺へ向かう宇佐大橋 一泊目 三陽荘 二泊目 新ロイヤルホテル四万十 |
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![]() 二日目の昼食はカツオのたたき丼 三日目の昼食はお弁当 吉野川の夕景色 明石大橋のレインボウ・イルミネーション |
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第35番札所 醫王山 鏡池院 清瀧寺 (いおうざん きょうちいん きよたきじ)宗派:真言宗豊山派 本尊:厄除薬師如来 開基:行基菩薩 創建:養老7年(723) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 歴史・由来土佐市の北部。醫王山の中腹にあり、「土佐和紙」「手すき障子紙」で知られる高知県の紙どころ。和紙を漉く重要な水の源泉として、弘法大師と因縁浅からぬ、信仰の厚い札所である。 見どころ本尊・厄除け薬師如来立像:本堂前、台座を含めると高さ15m、本堂の屋根より高い。昭和8年、製紙業者による寄贈。台座の中で88段の戒壇巡りができる |
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【一日目】 清瀧寺 本堂 大師堂 厄除け薬師如来立像 15m 台座の中は胎内巡り。 |
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第34番札所 本尾山 朱雀院 種間寺 (もとおざん しゅじゃくいん たねまじ)宗派:真言宗豊山派 本尊:薬師如来 開基:弘法大師 創建:弘仁年間(810?824) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 歴史・由来土佐湾の沿岸は、四国霊場のメッカのようである。種間寺もその一つで、土佐湾の航海に結びついた興味深い縁起が伝えられている。 |
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![]() 種間寺 入口 鐘付き堂 私も鐘をついた 本堂 大師堂 |
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第36番札所 独鈷山 伊舎那院 青龍寺 (とっこうざん いしゃないん しょうりゅうじ)宗派:真言宗豊山派 本尊:波切不動明王 開基:弘法大師 創建:弘仁6年(815) 歴史・由来青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡る。昭和48年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡った。弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡り、お供をした8人を残している。その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられている。 見どころ愛染明王坐:木造、本堂に安置。国の重要文化財。不動明王像と一対に祀られ、苦しみのすべてを救いとってくれるという。 |
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![]() 青龍寺 山門 屋根に龍が彫られている 本堂 大師堂 波切不動明王? |
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第33番札所 高福山 幸福院 雪蹊寺 (こうふくざん こうふくいん せっけいじ)宗派:臨済宗妙心寺派 本尊:薬師如来 開基:弘法大師 創建:弘仁6年(815) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 歴史・由来土佐湾の桂浜は、美しい白砂で月の名所として知られる。幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立っていることでも名高い。雪蹊寺はそこから西へ約4kmの所。縁起は、 見どころ太玄塔:廃仏毀釈で廃寺となった寺を復興させた17代、山本太玄住職の供養塔。次の18代・玄峰和尚の師でもある。 |
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![]() 【二日目】(小雨の中) 雪蹊寺入口 本堂 大師堂 長宗我部信親の墓 |
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第32番札所 八葉山 求聞持院 禅師峰寺 (はちようざん ぐもんじいん ぜんじぶじ)宗派:真言宗豊山派 本尊:十一面観世音菩薩 開基:行基菩薩 創建:大同2年(807) 真言:おん まか きゃろにきゃ そわか 歴史・由来太平洋側、土佐湾の海岸に近い。小高い山とはいえ標高82mほどの峰山の頂上にあることから、地元では「みねんじ」とか「みねでら」と呼ばれている。また、海上の交通安全を祈願して建立されたので、「船魂の観音」とも呼んでいる。漁師たちに限らず、参勤交代などで浦戸湾から出航する歴代の藩主たちは、みなこの寺に寄り航海の無事を祈った。 |
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![]() 禅師峰寺 十一面観音像 本堂 大師堂 釣りバカ日誌撮影の境内 奇岩群 |
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第31番札所 五台山 金色院 竹林寺 (ごだいさん こんじきいん ちくりんじ)宗派:真言宗智山派 本尊:文殊菩薩 開基:行基菩薩 創建:神亀元年(724) 真言:おん あらはしゃ なう 歴史・由来土佐の高知の播磨屋橋で坊さんかんざし買うを見た…で有名な「よさこい節」の舞台であるほか、学僧・名僧があつまる「南海第一道場」とされた学問寺院としても知られる。鎌倉から南北朝時代の高名な臨済宗の学僧、夢窓国師が山麓に「吸江庵」を建てて修行、2年余も後進の育成に努めた。また、門前横には高知が生んだ世界的な植物学者、牧野富太郎博士の記念館と県立牧野植物園があるように、土佐の信仰や文化の中心地とも、土佐随一の名刹ともいわれた。 見どころ五台山:高知の五台山は標高145m、山全体が高知県立都市公園。(中国では山西省にある標高3000mの霊山。文殊菩薩の霊場として仏教信仰の中心地として栄えた) |
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![]() 竹林寺 本堂 本堂・文殊菩薩 お手綱・なで五鈷 大師堂 五重塔 |
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第37番札所 藤井山 五智院 岩本寺 (ふじいさん ごちいん いわもとじ)宗派:真言宗智山派 本尊:不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩 開基:行基菩薩 創建:天平年間(729?749) 歴史・由来岩本寺は清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、五尊の本尊を祀る。寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3qの付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。 見どころ大師堂:200年ほど前の建造物で、境内では最も古い |
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![]() 岩本寺 本堂 5体の本尊を祀る 天井絵 マリリンモンロウもある 大師堂 珍しい円形 |
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| 第38番札所 蹉?山 補陀洛院 金剛福寺 (さださん ふだらくいん こんごうふくじ)
宗派:真言宗豊山派 本尊:三面千手観世音菩薩 開基:弘法大師 創建:弘仁13年(822) 真言:おん ばざらたらま きりく 歴史・由来四国の最南端、国立公園・足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、境内は120,000uを誇る大道場。弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。ときの嵯峨天皇(在位809?23)に奏上、勅願により伽藍を建立、勅額「補陀洛東門」を受し、弘仁13年、大師49歳のころ開創した。 見どころ本尊:三面千手観世音立像 |
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![]() 金剛福寺 補陀洛東門 庭園 左・大師堂 右・本堂 多宝塔? |
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![]() ジョン万次郎像 「足摺七不思議」地獄の穴 大師の爪書き石 亀呼び場 ゆるぎ石 |
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![]() 太平洋へ挑む足摺岬&灯台 |
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第39番札所 赤亀山 寺山院 延光寺 (しゃっきざん じさんいん えんこうじ)宗派:真言宗智山派 本尊:薬師如来 開基:行基菩薩 創建:神亀元年(724) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 歴史・由来土佐路の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。 見どころ眼洗い井戸:本堂の右手。大師は「宝医水」と名づけ、眼病にも効くとされ、眼の周りを浸している遍路さんが多い |
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![]() 【三日目】延光寺 朝日の中の民家 子供が合掌して迎えてくれた 仁王門 大赤亀の石堂・背中に銅の梵鐘 |
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![]() 本堂 大師堂 眼洗い井戸 樹齢500年のいぶき |
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第40番札所 平城山 薬師院 観自在寺 (へいじょうざん やくしいん かんじざいじ)宗派:真言宗大覚寺派 本尊:薬師如来(伝弘法大師作) 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 歴史・由来愛媛県は「菩提の道場」。その最初の霊場で、第一番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。美しいリアス式海岸の宇和海に面した最南端で、海洋レジャーの基地。真珠の生産地としても知られる足摺宇和海国立公園がある。 見どころ八体仏十二支守り本尊と脇侍: |
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![]() 観自在寺 山門 八体仏十二支守り本尊 本堂 |
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![]() 大師堂 総檜造り 「南無阿弥陀仏」の名号宝判 平城天皇の勅額「平城山」 |
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第41番札所 稲荷山 護国院 龍光寺 (いなりざん ごこくいん りゅうこうじ)宗派:真言宗御室派 本尊:十一面観世音菩薩 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 真言:おん まか きゃろにきゃ そわか 歴史・由来宇和島は伊達家十万石の城下町。その市街地から北東に10qほどの所に三間平野、地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれいるのが龍光寺で、往時の神仏習合の霊場である。山門は鳥居で、これをくぐると仁王像に代わる守護役・狛犬が迎えてくれる。境内には狐とお地蔵さんの石像が仲良く並び、仏と神が同居している。 |
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![]() 龍光寺 本堂 大師堂 鳥居の山門 この上に稲荷神社がある 狛犬左&右 |
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第42番札所 一果山 毘盧舎那院 仏木寺 (いっかざん びるしゃないん ぶつもくじ)※(一果山」の「果」=王偏に果) 宗派:真言宗御室派 本尊:大日如来(伝弘法大師作) 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 歴史・由来牛の背に乗った弘法大師の伝説が語り継がれる仏木寺には、境内に家畜堂という小さなお堂がある。ミニチュアの牛や馬の草鞋をはじめ、牛馬の陶磁器、扁額などがところ狭しと奉納されている。近隣の農家では、田植えが終わったころに参拝に行き、牛馬の守護札を受けて帰り、畜舎の柱に貼っていた。往時は農耕をともにした家畜たちの安全を祈願していたが、最近ではペットなども含めて動物一般の霊を供養したり、また、闘牛の飼育者の間にも信仰が広がっているという。 見どころ本尊:大日如来像・鎌倉時代の墨書銘があり、像高1.2mの寄せ木造り。県指定文化財。背面に大師作の小像が胎内に納められている旨の墨書がある |
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![]() 仏木寺 山門 鐘楼堂 珍しい茅葺き屋根 本堂 大師堂 |
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第43番札所 源光山 円手院 明石寺 (げんこうざん えんじゅいん めいせきじ)宗派:天台寺門宗 本尊:千手観世音菩薩 開基:円手院正澄 創建:六世紀前半 真言:おん ばざらたらま きり そわか 歴史・由来明石寺が所在する西予市宇和町には、愛媛県歴史文化博物館をはじめ、宇和文化の里の開明学校、申議堂のほか、高野長英の隠れ家、多くの古墳など古代の遺跡が残されている歴史と文化の町である。 見どころ神仏習合・本堂・ |
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![]() 明石寺 山門 本堂 大師堂 しあわせ観音・先達さんに感謝 |
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| 2019年12月2〜3日 第8回目 四国霊場88ヶ所巡り 第44番〜51番 |
【第一日目】 梅田7:40→休憩2ヶ所→リンリンパーク・昼食→?岩屋寺→?大宝寺→17:30松山・道後(ホテル・ルナパーク泊) 朝家を出る時は小雨。どっちみち午前中はバス移動なのでさして気にはならない。案の定、昼前には青空が見えだした。途中、、バスの中で「龍華」という御詠歌?の節や、「鈴の音山河」という霊場巡り歌を楽譜付きで練習。退屈しのぎにはなったかも・・。リンリンパークで昼食後今回の第一寺・岩屋寺に到着。既に3時を過ぎていた。今日予定の2カ寺とも歩きがハード。寺の後に聳える岩肌のダイナミックにな大穴が自然の力を誇示している。バスに戻り、2番目の大宝寺では4時半を過ぎ、蝋燭や線香は禁止。参拝を終え寺の階段を降りる頃には真っ暗になっていた。宿へ入り、食事を済ませてから、せっかくの道後なのだから「坊ちゃん湯」に入ろうと、同室の仲間と出かけた。本館は修理中とかで、別館に行くと、丁度「火の鳥」のイルミネーションが付きはじめ、華やかな歓迎ムードだった。 第二日目 ホテル7:30→51番石手寺→50番範多寺→49番浄土寺→48番西林寺→47番八坂寺→46番浄瑠璃寺 |
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宿泊は「ホテル・ルナパーク」 道後温泉本館は修理中 別館「神の湯」火の鳥イルミネーション 傍の商店街 【夏目漱石と道後温泉】 道後温泉は日本最古の温泉で、現在の建物は明治27年4月に建てられ、重要文化財に指定されている。夏目漱石が松山中学の先生として赴任したのは翌28年4月9日。手紙の中で「道後温泉は立派な建物にて、8銭出すと3階に上り茶を飲み菓子を食い、湯に入れば頭まで洗ってくれる始末、随分結構に御座候」と記している。 |
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第45番札所 海岸山 岩屋寺 (かいがんざん いわやじ) 宗派:真言宗豊山派 本尊:不動明王 開基:弘法大師 創建:弘仁6年(815) 歴史・由来 標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である。神仙境をおもわせる境内は、むかしから修験者が修行の場としていて、さまざまな伝承が残されている。 見どころ |
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穴禅定 かなえる不動 本堂 大師堂(重要文化財)後の岩山の大穴がすごい! 逼割禅定 |
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第44番札所 菅生山 大覚院 大寶寺 (すごうざん だいかくいん だいほうじ) 宗派:真言宗豊山派 本尊:十一面観世音菩薩 開基:明神右京・隼人 創建:大宝元年(701) 陵権現: 後白河天皇の妹宮をお祀りしている。保元年間(1156?58)に後白河天皇が御脳の病になられ、当山に勅使が参詣し病気平癒の祈願を込めた。祈願成就になって多額の浄財を寄進、菅生山に48の僧堂坊舎が建立された。併せて御皇妹宮が住職となられた。妹宮の死後は廟墓と五輪塔を建立して、陵権現としてお祀りし、現在も陵、勅使橋の遺跡がある。また、後白河天皇直筆の『菅生山』の勅額も残されている |
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![]() 陵権現 三すくみ(蛙・蛇・蛞蝓) 本堂 大師堂 (到着が遅く、周囲が暗くて、すべてをソフトで明るく修正した) |
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| 第51番札所 熊野山 虚空蔵院 石手寺 (くまのざん こくぞういん いしてじ) 宗派:真言宗豊山派 本尊:薬師如来 開基:行基菩薩 創建:天平元年(729) 真言: おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 歴史・由来 日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である。例えば、 国宝:二王門で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。 重要文化財:本堂をはじめとして、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある。 縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724?49)の勅願所となった。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。 「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。 鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられた考証もある。 見どころ 7転八起元気石: 洗い石:門前にある別名「渡らずの橋」。別名「弘法大師お道開きの橋」傍には衛門三郎の像がある。 訶洗い梨帝母天堂・落書き堂・・阿弥陀堂(二王門を入り左側。ぼけ防止の祈願者が多く参拝する。) |
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![]() 洗い石&衛門三郎の像 本堂 大師堂 地底巡り |
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| 第50番札所 東山 瑠璃光院 繁多寺 (ひがしやま るりこういん はんたじ) 宗派:真言宗豊山派 本尊:薬師如来 開基:行基菩薩 創建:天平勝宝年間(749?757)) 真言: おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 歴史・由来 寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。 縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749?58)の勅願により、行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、天皇より祭具としての幡を賜った為にこれが寺名になったという説もある。弘仁年間(810~24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された。その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274?87)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。また、時宗の開祖・一遍上人(1239?89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。 また、天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には後小松天皇(在位1382?1412)の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。 さらに江戸時代には徳川家の帰依をうけ、四代将軍・家綱が念持仏としていた3体のうちの歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えた。 見どころ 歓喜天像:本堂左手の聖天堂に安置。祈れば富貴を与え、厄除け、夫婦和合、商売繁盛などのご利益があるという 二十四孝天井絵: |
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山門 二十四孝天井絵(鐘楼堂の天井絵) 16弁の菊の紋章瓦 本堂 大師堂 |
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| 第49番札所 西林山 三蔵院 浄土寺 (さいりんざん さんぞういん じょうどじ) 宗派:真言宗豊山派 本尊:釈迦如来(伝行基菩薩作) 開基:恵明上人 創建:天平勝宝年間(749?757)) 真言: のうまく さんまんだ ぼだなん ばく 歴史・由来 境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立つ。浄土寺は空也上人(903?72)の姿がいまに残る寺である。腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。この空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749?58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668?749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。 空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957?61)の3年間、村人たちへの教化に努め 、布教をして親しまれた。鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。だが、応永23年(1416)の兵火で焼失、文明年間(1469?87)に領主、河野道宣公によって再建された。本堂と内陣の厨子は当時の建造で、昭和36年に解体修理をされているが、和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。 見どころ 空也上人像:国指定重要文化財。像高121.5cm、木造、玉眼。口元から六体の阿弥陀小化仏を吐いている 落書き:本堂厨子に室町時代から江戸時代にかけての落書きがあり、貴重な歴史史料 三蔵院:浄土宗の開祖・法然上人、1世・聖光上人、2世・良忠上人の自作像が安置されていた。この三像は昭和20年の松山空襲で出開帳先の寺で全焼している。 |
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![]() 山門 正岡子規の句「霜月の空也は骨に生きにける」 本堂 大師堂 |
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| 第48番札所 清滝山 安養院 西林寺(せいりゅうざん あんよういん さいりんじ) 宗派:真言宗豊山派 本尊:十一面観世音菩薩 開基:行基菩薩 創建:天平13年(741) 真言: おん まか きゃろにきゃ そわか 歴史・由来 寺の前に小川があり、きれいな水が流れている。門前にはまた正岡子規の句碑があり、「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と刻まれている。「ていれぎ」は刺し身のツマに使われる水草で、このあたりの清流に自生し、松山市の天然記念物とされている。 縁起によると、聖武天皇(在位724?49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留した。ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。 このころ村は大旱魃で苦しんでおり、弘法大師は村人を救うために錫杖を突き、近くで清水の水脈を見つけた。寺の西南300mにある「杖の淵」はその遺跡とされ、水は涸れたことがなく土地を潤し、昭和60年の「全国の名水百選」にも選ばれている。 時代は江戸・寛永年間火災で堂塔を焼失した。元禄13年(1700)に松平壱岐守はじめ、家老、奉行など諸役人の手により一部を再建、宝永4年(1707)には中興の祖、覚栄法印が村民の雨乞い祈願を成就して松山藩に帰依され、本堂と鐘楼堂の再興に尽力、さらに江戸末期に大師堂と仁王門を復興している。現大師堂は平成20年(2008年)に再建された。 見どころ 福授地蔵:納経所前の庭園。お詣りすると1つだけ願いを叶えてくれる。幸せを授けてくださるお地蔵さん。 孝行竹:閻魔堂の前。親竹と子竹が離れないで生えている竹で、家庭円満の象徴として信仰されている。 寺宝(四國偏禮繪圖):最古の四国遍路絵図として貴重。宝暦13年(1763)の刊行。 |
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![]() 山門 本堂 大師堂 福授地蔵 |
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第47番札所 熊野山 妙見院 八坂寺(くまのざん みょうけんいん やさかじ) 見どころ |
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![]() 山門 本堂 焔魔堂・左は地獄の径 極楽の径 大師堂 |
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第46番札所 医王山 養珠院 浄瑠璃寺(いおうざん ようじゅいん じょうるりじ) 宗派:真言宗豊山派 本尊:薬師如来 開基:行基菩薩 創建:和銅元年(708) 歴史・由来 見どころ |
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![]() 参道入口・石段下に正岡子規の句碑 本堂 大師堂 大師人形抱っこできる 鐘楼堂 |
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![]() イブキビャクシン 3本ある 説教石 仏足石(仏手は分からなかった) 九横封じ石 |
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| 2020年1月20日〜21日 四国霊場巡り 第9回 第52番〜第59番 |
【一日目】 大阪梅田7:40→休憩(淡路島・室津&吉野川ハイウエイオアシス)→昼食・リンリンパーク →52番太山寺→53番圓明寺→6:00宿泊・今治国際ホテル 【二日目】 ホテル7:40→55番南光坊→54番延命寺→56番泰山寺→57番栄福寺→58番仙遊寺 →59番国分寺 今回は初めから1日目は2ケ寺、2日目に6ケ寺と予定通りに進行した。大阪から松山まではやはり遠く、2ケ寺を終えてから今治国際ホテルにチェックイン。霊場巡り宿としては最上級クラスだそうだ。ところが、同室となった相棒にとんだハプニング。彼女がお茶を入れようとした瞬間蓋が取れ、ポットのお湯をザァーッと脚に被って火傷してしまった。浴槽で冷やそうとしたら栓がいっぱいで水の出し方が分からない。水で濡らしたタオルで冷やし、夕食後、近くの薬局へ火傷の薬を買いにつきあい、なんとか大事に至らずに済んだのだが、ほんと、災いは咄嗟に来るものだ・・。 今回主に今治周辺のお寺だったので、過去にマラソンで走ったしまなみ海道の来島大橋が見れてとても懐かしかった。もう25年も前の話・・、時の流れは「光陰矢の如し・・」 若い時にマラソンやトライアスロンの真似事をしていて、現在の自分があるのだと、つくづく良かったと思う。 |
![]() 昼食処・リンリンパーク 宿泊・今治国際ホテル 今治市のゆるきゃら・バリイさんといまぞう君 しまなみ海道・来島大橋 |
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| 第52番札所 龍雲山 護寺院 太山寺(りゅううんざん ごじいん たいさんじ) 宗派:真言宗智山派 本尊:十一面観世音菩薩 開基:真野長者 創建:6世紀後半 真言:おん まかきゃろにきゃ そわか 太山寺の歴史・由来 開基とされる真野長者、その長者が一夜にして御堂を建てたという縁起は興味深い。長者は豊後(大分)でふいごの炭焼きをしていたが神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、以来運が開けて大富豪となった。用明2年(587)、商いの為船で大阪に向かうとき、大暴風に遭い、観音様に無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風を受けて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は立ち上がった。以来、「一夜建立の御堂」と伝えられている。 その後、天平11年に、聖武天皇の勅願を受けて、行基菩薩が十一面観音像を彫像し、その胎内に真野長者が龍雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。寺が隆盛したのは孝謙天皇のころで、七堂伽藍と66坊を数えるほど壮観であった。弘法大師は晩年の天長年間に訪れ、護摩供の修法宝をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。後、五冷泉天皇をはじめに、後三条、堀河、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、十一面観世音像を奉納されている。いずれも像高は150cm前後で、本尊の十一面観世音像とともに国の重要文化財。本堂内陣の厨子に安置されている。現本堂は長者の建立から3度目だが、真言密教では最大規模を誇り、国宝である。 太山寺の見どころ 本堂:嘉元3年(1305)松山城主・河野家が寄進。桁行7間、梁間9間の入母屋造り、本瓦葺き。国宝 仁王門:本堂と同じく鎌倉時代の再建で、3間8脚門、入母屋造り本瓦葺き。国宝文化財。 聖徳太子堂:伊予を訪れた大師がこの縁を結んだ。(法隆寺夢殿と同じ大師像を祀る) 最古の木製納札(安永9年・1780年)銘 |
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![]() 【太山寺】仁王門・国宝文化財 本堂・国宝 大師堂 身代わり観音 |
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| 第53番札所 須賀山 正智院 圓明寺(すがざん しょうちいん えんめいじ) 宗派:真言宗智山派 本尊:阿弥陀如来(伝行基菩薩作) 開基:行基菩薩 創建:天平勝宝元年(749) 真言:おん あみりた ていせい からうん 圓明寺の歴史・由来 圓明寺にはアメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしているとき、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年・1650年の銘があり、立て24cm、幅9.7cm、暑さ1mmで破損のない納札としては現在最古で例のない銅板性である。奉納者の樋口平人家次は京都五智山・蓮華寺の伽藍を再建して、五智如来石仏を造立したことなどで知られるが、この納札で特に注目されるのは初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。 縁起によると、天平勝宝元年(749)、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫像して、安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は和気浜の西山という海岸にあり、「海岸山、圓明蜜寺」と称したという。のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。更に、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。 圓明寺の見どころ キリシタン石塔:太子堂左の塀際にあり、高さ40m程の灯籠。キリシタン禁制の時代、寺では隠れ信者の礼拝を黙認していた。 左甚五郎作の龍:本堂の右上・鴨居にあり、5mほどの彫り物。行い悪い人が見ると目が光るという。 観音堂:十一面観音像を安置。慶長5年の台座銘 |
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![]() 【圓明寺】本堂 左甚五郎作の龍 大師堂 キリシタン石塔 |
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| 第55番札所 別宮山 金剛院 南光坊(べっくさん こんごういん なんこうぼう) 宗派:真言宗御室派 本尊:大通智勝如来 開基:行基菩薩 創建:大宝3年(703) 真言:なむ だいつうちしょう ぶつ 南光坊の歴史・由来 四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。 推古天皇御代二年甲寅(594)に勅により大三島に造立されて。其の後、越智玉澄公が文武天皇の勅を奉じて、大宝三年(703)風波のため祭祀がおろそかになるのを憂いて当地に勧請し、「日本総鎮守三島の地御前」と称して奉祭した。弘法大師は四国巡錫の時別館参拝し、坊で御法楽をあげられて四国霊場第五十五番札所と定めたのち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。 さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。 太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。 南光坊の見どころ 大通智勝如来:『法華経』の化城喩品第七に説かれている仏で、大山祇大明神の本地とされて河野水軍に信仰された。 川村驥山の菅笠:書道界初めて芸術院賞を受けた書家で、昭和29年娘を伴い遍路の途中に南光坊の住職と出会い、奉納した菅笠。あまりの達筆 に驚いた住職の望みに応えた。 金比羅堂:讃岐の金比羅宮から勧請している金比羅大権現を祀る堂。 |
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![]() 【南光坊】本堂 大師堂 金毘羅堂 ここに川村驥山の菅笠が奉納された |
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| 第54番札所 近見山 宝鐘院 延命寺(ちかにざん ほうしょういん えんめいじ) 宗派:真言宗豊山派 本尊:不動明王「(伝行基菩薩作)開基:行基菩薩 創建:養老4年(720) 真言:のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん 延命寺の歴史・由来 今治の市街地から西北へ6kmほどのところに、延命寺の山号にもなっている近見山という標高244mの山がある。この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられる。 縁起によると、養老四年に聖武天皇の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年になって、弘法大師が嵯峨天皇の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。 その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。この間、鎌倉時代の文永5年(1268)、華厳宗の学僧・凝然が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる『八宗綱要』を著述した。「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗で、上下2巻に記されている。 寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されており、境内に馬酔木の木があって、春の彼岸ごろから1ヵ月ほど可憐な白い花をつける。 延命寺の見どころ 山門:もと今治城の城門の一つで、総けやき造り。明治初期に今治城取り壊しの際に譲り受けた。 火伏せ不動尊:本尊。宝冠をかぶった珍しい不動明王像で、再三の火災から逃れているのでこの尊名が。 越智孫兵衛の墓:阿方の庄屋であった越智孫兵衛は、農民の窮乏を救い、享保年間の大飢饉でも餓死者を出さなかったと伝えられる。 大賀ハス:昭和26年、千葉市内の泥炭層の下から大賀一郎博士によって発見された。僅か3粒の種から今では全国に分根されいる。 |
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![]() 【延命寺】寺の手前に大賀ハスの池 山門・もと今治城門・総けやき造り 本堂 大師堂 |
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| 第56番札所 金輪山 勅王院 泰山寺(きんりんざん ちょくおういん たいさんじ) 宗派:真言宗単立 本尊:地蔵菩薩 開基:弘法大師 創建:弘仁6年(815) 真言:おん かかかび さんまえい そわか 泰山寺の歴史・由来 泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残っている。 弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ。蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。 大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。 寺はその後、淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。 泰山寺の右約300m「塔の元」という場所は、鎌倉時代の学僧で、『八宗綱要』を撰述した凝然が誕生した地とされている。 泰山寺の見どころ 土砂加持: 不忘の松:大師堂の側にある。 地蔵車:本堂斜め前。石塔に丸い輪があり、これを回すと六道輪廻の絆を断てるといわれる。六道は、地獄・餓鬼など衆生が背負う六つの迷界。 |
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![]() 【泰山寺】本堂 何故か瓦に〈太〉の字 師堂 松の左には不動明王・弘法大師像等 大師の「不忘の松」 |
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| 第57番札所 府頭山 無量寿院 栄福寺(ふとうざん むりょうじゅいん えいふくじ) 宗派:高野山真言宗 本尊:阿弥陀如来 開基:弘法大師 創建:弘仁年間(810?824) 真言:おん あみりた ていせいから うん 栄福寺の歴史・由来 瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えなかった。栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。 縁起によると、嵯峨天皇の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂で堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。 栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っている。 明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立した。現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。また、栄福寺が所蔵している江戸中期の手書きの納経帳にも「別当 栄福寺」の墨書きがあり、また同じく江戸時代の版木で押された納経帳でも「別当 栄福寺」の名がみられ、納経を明治維新からではなく、古来より行っていたことがわかる。 栄福寺の見どころ 古い納経帳:寛政12年江戸時代中期、九州から巡礼に来た人の名で、「八幡宮別当栄福寺」と記されている。約3ヵ月で四国霊場を一巡している。少年の箱車:足の不自由な15歳の少年が、犬に引かせて巡礼した箱車で、昭和8年にこ の寺で足が治り、松葉杖とともに奉納したもの。 お願い地蔵:参道入口。赤い帽子をかぶっている。 大師堂の十二支彫刻: |
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![]() 【栄福寺】本堂 少年の箱車 大師堂 お願い地蔵 伊予の石清水八幡宮 |
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| 第58番札所 作礼山 千光院 仙遊寺 (されいざん せんこういん せんゆうじ) 宗派:高野山真言宗 本尊:千手観世音菩薩 開基:越智守興 創建:七世紀後半 真言:おん ばざらたらま きりく 仙遊寺の歴史・由来 境内は、山号になっている作礼山の山頂近い標高300mの高台にあり、今治の市街地や四国一高い今治国際ホテルは眼下に望める。その先には瀬戸内海に浮かぶ島々、さらには平成11年に開通した「しまなみ海道」も一望できる眺望豊かな地にある。 創建は天智天皇(在位668?71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。 弘法大師が四国霊場開創の折にこの寺で修法をされたとき、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り、また荒廃していた七堂伽藍を修復して再興、寺運は興隆した。この井戸は旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えられ、信仰されている。 江戸時代には荒廃して本堂と12社権現だけとなっていたが、明治時代の初期、高僧・宥蓮上人が山主となり、多くの信者とともに再興に尽力した。宥蓮上人は明治4年、日本最後の即身成仏として入定している。境内には、上人を供養した五輪塔がある。 仙遊寺の見どころ お砂踏霊場:修行大師を中心に四国八十八ヶ所のご本尊石仏をおまつりし、足元にある各札所のお砂を埋めた石板を安置している。一心に念じて お参りすれば、多大なご利益をあずかることでしょう。 宿坊:お遍路さんが疲れを癒し、旅が続けられるよう宿坊を設営している。(全室和室・要予約 竜燈桜碑: 犬塚池: |
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![]() 【仙遊寺】鐘楼堂 本堂 大師堂 お砂踏霊場 |
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| 第59番札所 金光山 最勝院 国分寺 (こんこうざん さいしょういん こくぶんじ) 宗派:真言律宗 本尊:薬師瑠璃光如来 開基:行基菩薩 創建:天平13年(741) 真言:おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 国分寺の歴史・由来 伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった、東塔跡とみられる。遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。 国分寺は天平13年、聖武天皇の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰し、次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火により焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」の旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。 幸い寺には、古瓦をはじめ『国分寺文書』『大般若経』など数多い文化財が保存されている。 国分寺の見どころ 握手修行大師: 薬師の壺: 書院: 唐椿:四月初旬には径17cmほどの牡丹に似た花をつけ、楽しませてくれる。 |
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![]() 【国分寺】本堂 大師堂 握手修行大師 薬師の壺 |
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| 2020年2月13・14日 四国88ヶ所霊場巡り 第11回目 第66番〜77番 |
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![]() 鳴門大橋からの渦潮 宿泊・オークラホテル丸亀 (ホテルの窓から見た)丸亀港&ボートレース・ナイター |
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第66番札所 巨鼇山 千手院 雲辺寺 (きょごうざん せんじゅいん うんぺんじ) 宗派:真言宗御室派(経尋作) 本尊:千手観世音菩薩 開基:弘法大師 創建:延暦8年(789) 雲辺寺の歴史・由来 四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにある霊場で、「遍路ころがし」と呼ばれる難所とされた。現在は、麓からロープウエーで山頂駅まで登ることができる。住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めでいわば「関所寺」。縁起によると、弘法大師は雲辺寺に3度登っている。最初は延暦8年、大師が16歳のときで善通寺(第七十五番)の建材を求めてであったが、深遠な霊山に心うたれて堂宇を建立した。これが雲辺寺の創建とされている。2度目は大同2年(807)、大師34歳のとき、唐から請来した宝物で秘密灌頂の修法をなされたという。さらに弘仁9年(818・大師45歳)、嵯峨天皇(在位809?23)の勅を奉じて登り、本尊を彫造して、仏舎利と毘廬遮那法印(仏法石)を山中に納めて七仏供養をし、霊場と定められた。 |
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【一日目】雲辺寺 ![]() 標高911mへロープウエイ(雨) 山上の道は香川と徳島の県境線 濃霧の中の「大師乳銀杏」 五百羅漢も霧の中 |
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![]() 本堂 大師堂 お札の環をくぐって「おたのみ茄子」 山門 は帰りに撮り直し |
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第67番札所 小松尾山 不動光院 大興寺(こまつおざん ふどういんだいこうじ) 宗派:真言宗善通寺派 本尊:薬師如来(伝弘法大師作) 開基:弘法大師 創建: 天平14年(742) 大興寺の見どころ 本堂の「七日燈明」: 本堂で赤い蝋燭を7日間灯し祈祷する。病気平癒、安産、良縁などのご利益あり。 |
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![]() 【大興寺】 本堂 七日灯明 大師堂(弘法) 天台大師堂 |
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![]() 山門 両側に運慶作の金剛力士像 県指定の自然記念物・榧の木 香川の保存木・楠 鐘楼堂 |
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第70番札所 七宝山 持宝院 本山寺(しっぽうざん じほういん もとやまじ) 宗派:高野山真言宗 本尊:馬頭観音 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 本山寺の歴史・由来 四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけという五重塔が目印。天暦3年(950)の建立でしたが損傷が激しく明治43年に再建された。また、本尊は馬頭観世音菩薩で四国霊場では唯一のもの。頭上に馬頭をいただく観音様で、祀られている本堂のそばには馬の像が控えている。 本山寺の見どころ |
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![]() 【本山寺】仁王門 本堂 一重寄棟造り本瓦葺き 本尊・馬 頭観世音菩薩に因む馬 五重塔 大師堂 |
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第68番札所 七宝山 神恵院(しっぽうざん じんねいん) 神恵院の歴史・由来 六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にある。2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場である。 |
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![]() 【神恵院】山門 2ケ寺の共通門 本堂 コンクリート製 本堂の内部 大師堂 |
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第69番札所 七宝山 観音寺(しっぽうざん かんのんじ) 宗派:真言宗大覚寺派 本尊:聖観音世音菩薩 開基:日証上人 創建:大宝3年(703) 観音寺の歴史・由来 観音寺が第六十八番・神恵院と同一境内にあり、開基も創建の時期や由縁も同じであることは、前項で述べている。ただ、創建されたころの寺号は「神宮寺宝光院」と称した。以来、100年後の縁起からたどる。大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山したと伝わる。そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣って中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。さらに、この地に仏塔を建てて瑠璃、珊瑚、瑪瑙などの七宝を埋め、地鎮をしたことから、寺名の神宮寺を「七宝山・観音寺」に改め、霊場に定めたとされている。 観音寺の見どころ |
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![]() 【観音寺】 本堂 大師堂 薬師堂 鐘楼堂(2ケ寺共用?) |
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第77番 札所 桑多山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ) 宗派:真言宗醍醐派 本尊:薬師如来 開基:和気道隆 創建:和銅5年(712) 道隆寺の歴史・由来 仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見、この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養した。 道隆寺の見どころ |
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![]() 【道隆寺】 山門 本堂・沢山の観音様が並ぶ 大師堂 潜徳院殿堂 眼にご利益 |
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【二日目】 金倉寺は、弘法大師の甥で天台寺門宗の開祖「智証大師」が誕生した地。縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となった。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようだ。 金倉寺の見どころ |
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【二日目】 ![]() 【金倉寺】 本堂 大師堂 訶利帝堂・鬼子母神を祀る ぐち聞きわらべ |
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第71番 札所 剣五山 千手院 弥谷寺(けんござん せいじゅいん いやだにじ) 今からおよそ1300年前。人皇第45代聖武天皇の勅願により、行基菩薩が堂宇を建立し、疾病平癒の為、光明皇后により、『大方広仏華厳経』がお祀りされ、寺院を創建したといわれている。また、華厳経以外にも、寺宝の経典の中には天平年間724年頃につくられた経典が残っており、少なくとも724年以前には寺院が建立されていた事が伺へ、大師生誕(774年)の50〜100年程前に創建された事が分かっている。 弥谷寺の見どころ 洞地蔵尊: 首から上の病に御利益があるといわれるお地蔵様。獅子之岩屋に向かう途中の大師堂内より参拝でき、座って岩壁の10b上方を見上げないと姿を見る事ができない。 |
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![]() 【弥谷寺】 賽の河原 弥陀三尊磨崖仏 |
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本堂 大師堂の中 洞地蔵尊 出口の門 |
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第72番 札所 我拝師山 延命院 曼荼羅寺(がはいしざん えんめいいん まんだらじ) 宗派:真言宗善通寺派 本尊:大日如来 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 曼荼羅寺の歴史・由来 縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していました。弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のこと。母玉依御前の仏果菩提を祈るためだったともいわれています。唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めました。 聖観音立像:観音堂に安置されており、158cmの檜一木造りで端麗な佇まい。平安後期の作。香川県有形文化財。四国88カ所記念切手にこの仏様のお顔が描かれている。 笠松大師:笠松と呼ばれていた、不老松の幹に刻んだ弘法大師座像。お遍路さんは笠松大師をさすっては在りし日の姿を偲んでいる。 西行の昼寝石:平安時代末期の歌僧・西行がこの寺に通っては昼寝をしていたという石。 |
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![]() 【曼荼羅寺】 山門 本堂 大師堂 鐘楼堂 |
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![]() 観音堂 笠松大師 「不老の松」跡 本堂の旧・鬼瓦(明治9年) |
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第73番 札所 我拝師山 求聞持院 出釈迦寺(がばいしざん ぐもんじいん しゅっしゃかじ 出釈迦寺の歴史・由来 出釋迦寺の開基には、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起にゆかりがある。。我拝師山に登り、「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で刻んで安置し、堂宇を建てたといいる。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所であったが、今は寺の奥の院となり、境内から急坂を50分ほど上がった場所にあります。弘法大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「求聞持法」を修めたことから「求聞持院」という院号がついた。ここで拝むとすばらしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があるといわれている。 出釈迦寺の見どころ 捨身ヶ嶽禅定: 弘法大師が7歳の時、身を投じた断崖絶壁。寺の境内から50分ほど登った場所にあり、さらに100m進むと大師捨身の お行場がある。毎月旧暦15日には護摩祈祷が行われている。 |
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![]() 【出釈迦寺】修行大師ご尊像 安産地蔵尊 子宝の三鈷の松 寺の遥拝所から捨身ケ嶽禅定を拝む→拡大図 |
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![]() 干支別守り本尊 山門 本堂 大師堂 |
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第74番 札所 医王山 多宝院 甲山寺(いおうざん たほうざん こうやまじ) 宗派:真言宗善通寺派 本尊: 薬師如来(伝弘法大師作) 開基:弘法大師 創建:平安時代初期 甲山寺の歴史・由来 甲山寺周辺は弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所。平安初期、壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していた。ある時、甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言いました。弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養しました。 甲山寺の見どころ 本堂: 檜の一木造りで、重厚な姿と力強く引き締まった表情が印象的な「薬師如来像」が祀られている。 毘沙門天の岩窟: 大師堂の左手にある奥行12mほどの岩窟。大師が彫ったといわれる毘沙門天像が祀られている。 子安地蔵: 大師堂へ続く石段の隣に祀られたお地蔵様は子宝にご利益があるとか。子宝を願ってお地蔵様の前掛けを持ち帰り、叶うと新しい前掛けを持ってくる習わし。 |
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![]() 【甲山寺】山門 中門 本堂(檜の一木造り) 大師堂 |
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![]() 子安地蔵? 毘沙門天の岩窟 淡路大明神(女性の守り神) |
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第75番 札所 五岳山 誕生院 善通寺(ごがくざん たんじょういん ぜんつうじ) 宗派:真言宗善通寺派 本尊:薬師如来(伝弘法大師作) 開基:弘法大師 創建:大同2年(807) 善通寺の歴史・由来 五岳山 善通寺の創建は、『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)によると、唐より帰朝されたお大師さまが、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと記されています。 善通寺の見どころ 金堂: 善通寺の本堂。創建当時の金堂は、永禄元年(1558)、三好実休の兵火により焼失し、現在の建物は、元禄12年に上棟されたもの。本尊・薬師如来坐像は、像高3メートルの巨像で、元禄13年、御室大仏師北川運長によって造像された。 御影堂: 弘法大師が御誕生された佐伯家の邸宅地に建ち、奥殿には大師自筆と伝わる本尊・瞬目(ひめき)大師像が秘蔵されている。現在の建物は天保2年(1831)に再建され、昭和12年に大規模な修築がされた。また、御影堂地下には、約100メートルの「戒壇めぐり」があり、暗闇の中、御宝号を唱えながら大師と結縁する道場となっている。 |
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![]() 【善通寺】広大な境内への入口 (金堂)本堂 本堂前の薬師如来像(本尊は坐像3m) 五重塔 |
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![]() 伽藍・東院と誕生院・西院の境界門 (御影堂)大師堂 御影池(奥・弘法大師 前・左から父・釈迦如来・母) 御影の松(枯木) |
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| 2022年4月15日〜16日 四国88ケ所霊場巡り・12回目 |
なんと、3年越しの四国88ヶ所霊場巡りの最終・第12回目・一泊二日の旅にやっとこぎつけた。本来ならばコロナの始まった一昨年の4月に最終回となるはずだった。この世は一寸先は闇、自身の身体も昨年暮れにアクシデントで圧迫骨折してしまい、今や障害者なみに弱化してしまった。先祖供養や、家内安全など、プラス思考のお参りさえも、階段の上り下りや、二日間の旅に耐えられるかと心配が先に立つ。しかし乗りかけた船、これが最終回ならばとにかくやりおおせて、ケリをつけたい。そんな気持ちで、ひたすら無事に終われるように細心の注意を覚悟しての参加となった。幸い骨折の経過は至って順調で、最近わずかに左膝に違和感があるだけなので、念のため湿布を貼っていった。これが効いたのか、お寺の上り下りがウソのように軽い。まるで以前の自分のように各寺で写真を撮りまくり、バス窓からの風景にも余念なく、2日間は何の不足も無く過ぎた。「この調子ならこれからは以前のようにもう普通に行動できる」ルンルンの2日間にモリモリと自信が湧いてきた。 |
![]() 宿泊はホテルパールガーデン 屋島寺からの下りにバスの窓から 八峯寺から志度寺へ向う途中の屋島と五剣山(右) |
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第78番札所 仏光山 広徳院 郷照寺 宗派:時宗 本尊:阿弥陀如来 開基:行基菩薩 創建:神亀2年(725) 真言: おん あみりた ていせい からうん 歴史・由来 境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が見事である。往時から港町として栄え、「四国の表玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。縁起によると、郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。 京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師(聖宝832〜909)がこの寺に籠山し修行したのは仁寿年間(851〜54)とされ、浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都(源信942〜1017)が霊告を受けて釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建立したのは寛和年間(985?87)とされている。さらに、仁治4年(1243)には『南海流浪記』の著者及び中院流の祖である高野山の道範阿闇梨が配流となったとき、この寺を仮寓にした。「時宗」の開祖・一遍上人(1239?89)は、正応元年(1288)に逗留して易行・浄土教の教えを広めたことから、真言・時宗の2教の法門が伝わることになり、八十八ヶ所の中で特異な霊場となり、今日も真言三密の教え・浄土易行の教えが脈々と伝わっている。 見どころ 庚申堂: 「庚申信仰」を伝えるお堂。本尊には6本の手を持つ青面金剛が祀られ、病魔を除く霊験があるとされる。 地下幽玄郷 万体観音堂: 本尊聖観世音菩薩を中心にミニ観音像一万体を安置。御信者のお願い事の成就を託しています。 千枚通し: 鎌倉時代、時宗の開祖・一遍上人が道端で重病のお遍路に会い、夢でお告げの手書きの札を作って飲ませると病人が元気になったという。 他に、鑑賞式庭園 境内から望む瀬戸大橋の眺望 |
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![]() 門をくぐる 本堂 地下幽玄郷へ下りる 万体観音堂・聖観世音菩薩 |
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![]() 千枚通し(病気やお産に飲むお札) 庚申堂(青面金剛) 鐘楼堂・・見下ろす 多津町風景 公園に琴平車両が・・ |
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| 第79番札所 金華山 高照院 天皇寺 宗派: 真言宗御室派 本尊: 十一面観世音菩薩 開基: 行基菩薩 中興: 弘法大師 創建: 天平年間(729?749) 真言: おんまか きゃろにきゃ そわか 歴史・由来 天平年間に四国巡錫の為に当地を訪れた行基は、鉱石が多く産出されるこの山が、カナヤマビメとカナヤマヒコの御座す山であるとし、金山と名付ける。そしてこの金山中腹に薬師如来を御本尊とした金山摩尼珠院を建立し、この地が神仏習合の地であることを現した。 後の弘仁年間に空海が訪れ、朽ち果てた金山摩尼珠院を現在の79番札所の場に移動させ、金華山妙成就寺摩尼珠院として中興する。空海を中興の思いへと向かわせたのは、御神体金山を鎮護する金山権現との出会い、そして金山中腹より湧き出る御神水との感応にあった。ありとあらゆるすべての蘇生が可能であると確信を得た空海は、この耶蘇の地にて十一面観音菩薩・阿弥陀如来・愛染明王を刻み堂宇に安置する。 後の保元の乱により讃岐へと配流された崇徳天皇と空海御手彫阿弥陀如来の出会いは、空海中興金華山妙成就寺摩尼珠院を崇徳天皇永代別等職へと至らせることとなる。 崇徳天皇御崩御の後、寺院境内に崇徳天皇社が造営され、後嵯峨天皇による永代別等職の詔を賜り、崇徳天皇供養の寺、崇徳天皇寺と呼ばれるようになった。 明治時代の廃仏毀釈による廃寺という現象は、筆頭末寺であった奇香山仏乗寺高照院院主らの尽力による、今日の金華山天皇寺高照院を生み出すこととなった。 見どころ 三輪鳥居: 天皇寺境内にそびえ立つ朱色の鳥居は、奈良県大神神社と同系の三輪鳥居であり、両部神道を源とする三輪神道で境内が荘厳されていることを表した鳥居である。鳥居向かって左側には源頼朝寄進の下乗石、天皇寺境内正面には崇徳天皇社(現・白峰宮)が建立されている。 本堂:当山御本尊十一面観音菩薩頭上の阿弥陀如来印契より、本堂正面(金剛界説法)と本堂背面(胎蔵界説法)の両面を参拝するのが習いとなった。 太師堂: 金華山妙成就寺摩尼珠院中興に尽力した、奇香山仏乗寺高照院御本尊薬師如来の梵字が堂宇正面に懸けられている。 |
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![]() 三輪鳥居 白峰宮(崇徳天皇社) 本堂 |
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![]() 太師堂 梵鐘堂 アーチの模様が独特 |
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| 第80番札所 白牛山 千手院 国分寺 宗派: 真言宗御室派 十一面千手観世音菩薩 開基:行基 創建: 天平13年(741) 真言: おん ばさら たらま きりく 歴史・由来 奈良時代の創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が四国で唯一の国の特別史蹟。本堂は、前面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたものです。また境内地の中心部には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、現在の唐招提寺の金堂に匹敵する規模です。また、山門を入ってすぐ右手には七重の塔の礎石も残り、現存すれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったと推定されます。寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩がの開基した讃岐の国の国分寺です。その後、弘仁年間(810?823)に弘法大師が本尊千手観音像を修理し、霊場に定めますが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。鎌倉時代には西大寺の末寺であったとする記録があり、その頃、現在の本堂が建てられ、その後、高松藩主・生駒氏や松平氏のひ護を受け、今に至ります。 また、この寺で有名なのは四国最古の梵鐘(ぼんしょう)大蛇がかぶっていたという伝説とともに次のような実話があります。江戸初期の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町(ちょう)と引き換えに手に入れます。ところが、城へ運ぼうとすると思ったより異様に、大勢の人馬を必要としました。しかも、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行。そして、自身も病に倒れた 一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へいぬ(帰りたい)」と泣くのです。そこで結局、鐘は国分寺へ返すことに。城に運んだ時と違い、今度はなぜか少人数でも軽々と運べた上、鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったという伝説が残っています。 見どころ 本堂: 鎌倉時代、旧講堂跡に再興された国の重要文化財。本尊はケヤキの一本造りの秘仏。(御開帳は60年に一度、次回は2040年を予定) 梵鐘: 創建当時から残る四国最古の鐘。興味深い伝説がおおいことでも有名。 奈良時代の礎石が残る。(金堂跡・七重塔)広い境内には黒松の大木が樹立します。 本堂・梵鐘・礎石(金堂跡、七重塔跡)・大師堂(大師像が直に見える)・弁財天(国分寺には、さぬき七福神の中で紅一点の「弁財天」を祀る。) |
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![]() 仁王門 重要文化財・鐘楼と梵鐘 本堂 大師堂(納経所の奥にある) |
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![]() 弁財天(さぬき七福神の紅1点) 奈良時代の礎石がいっぱい |
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| 第81番札所 綾松山 洞林院 白峯寺 宗派: 真言宗御室派 本尊: 千手観世音菩薩 開基: 弘法大師、智証大師 創建: 弘仁6年(815) 真言: おん ばざら たらま きりく 歴史・由来 白峯寺は香川県中程にある霊峰の五色台には青峯、黄峯、赤峯、白峯、黒峯の五峯の山があり、その最も西よりの白峯山にあります。参道からは瀬戸内海の雄大な景色が望める静かな古刹で、弘法大師と大師の妹の子と言われる智証大師が創建されました。弘仁6年、弘法大師は白峯山の山頂に、如意宝珠を埋め井戸を掘り、衆生済度を祈願しました。後に智証大師は、瑞光に導かれて白峯山に登頂し、地主神である白髪の老翁のご神託を受け、瀬戸内海に現れた光明に耀き芳香薫ずる霊木で千手観音像を彫造し、これを本尊として佛堂を創建したと伝えられます。 白峯という、まろやかな響きを持つこのお寺には、有名な物語が二つあります。 保元の乱で破れ讃岐へ流された崇徳上皇は、都へ帰りたいという思いが叶わぬまま寂しくこの地で亡くなられ、御遺詔によって当山稚児嶽上に荼毘し、御陵が営まれました。しかし都では異変が相次いだため、代々の天皇、公卿、武将も恐れ崇め奉り、御府荘園を寄せて菩提を弔い、或は法楽、詩歌、種々の霊器宝物を奉納して慰霊の誠を尽し、特に第100代の後小松帝は上皇の霊を祀る法華堂に「頓証寺」の勅額を奉納し尊崇の意を表しました。また仁安元年、上皇と親交のあった西行法師が慰霊の為に御廟に参詣した際に上皇の霊と歌を詠み交わした話は上田秋成作『雨月物語』の伝説でも有名です。また、境内には上皇の悲話を伝える玉章木(たまずさのき)もあります。 また白峯山には日本八天狗の一狗である心優しい相模坊という天狗が住んでいると伝えられています。突然の来客があり和尚の命により、小僧さんが豆腐を買いに出かけたところ、突然、何者かに背中を押され、空を飛ぶような感覚になりました。そして次の瞬間、田舎では見ることない上等の絹豆腐を受け取り元の場所に立っていました。これは、突然の買い物に走る小僧さんを気の毒に思い相模坊天狗が助けてあげたと今なお語り継がれています。 住時は塔頭21ヶ坊を数え隆盛を極めていましたが、度々の雷火、兵火の災いに遇い、現存するものは藩侯生駒家、松平家の再建によるものです。 見どころ 干支守り本尊: 境内のお堂ごとに干支の守り本尊がそれぞれに祀られたおり、本堂・太師堂をお参りした後に自身の干支の守本尊が祀られているお堂をお参りする。 勅額門と頓証寺殿: 高松藩主松平頼重公が造営した勅額門と頓証寺殿は装飾・構造共に非常に手が込んでおり、和様を貴重とした端正な形式と意匠でまとめられ、傑出した特色を持つ、きわめて貴重な建物であり、天皇・神・仏の3者を一堂で祀る形式は全国的にも他に類を見ないものである。 建造物では十三重石塔2基、山門(七棟門)、御成門、勅使門、客殿、勅額門、頓証寺殿、薬師堂、行者堂、阿弥陀堂、本堂、大師堂、美術品では「頓証寺」勅額が国の重要文化財で、その他多数の指定文化財を有しています。 境内には四国で唯一の天皇の墓所である白峯陵が隣接し、すべての干支の守り本尊が各お堂に祀られ、日本八天狗の一狗である白峯大権現(相模坊)が祀られています。 香川県の保存木に指定されている樅(モミ)の巨木をはじめ、年中を通して花々が楽しめ、特に春は桜、夏は紫陽花、秋は紅葉が有名で多数の参拝者が県内外から訪れます。 参道には県内最大級の落差を誇り、幻の滝ともいわれる稚児の滝や、瀬戸内海を一望できる白峰展望台があります。 また、古来より本尊千手観世音菩薩は身代わり観音として、鎮守白峯大権現(相模坊)は開運招福、商売繁盛、勝負事の神様として、崇徳天皇は悪縁切り、芸事、学問の神様として信仰されている。 |
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![]() 山門 両側に大きな草履だけのお出迎え 本堂 大師堂 |
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![]() 干支ごとのお守り神・午は布袋さま この寺だけ雨が降った 思いがけずシャクナゲが満開 |
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第82番札所 青峰山 千手院 根香寺 宗派: 天台宗 本尊: 千手観世音菩薩 開基: 弘法大師、智証大師 創建: 弘仁年間(810?824) 真言: おん ばざらたらま きりく そわか 歴史・由来 五色台の主峰、青峰山に佇ずむ、かつての巨刹。五つの山に金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師は、密教修行の地とし青峰に「花蔵院」を建立されました。後に大師の甥にあたる智証大師が訪れた際、山の鎮守である一之瀬明神に出会い、「この地にある毘沙門谷、蓮華谷、後夜谷に道場を作り、蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げをうけました。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し、「千手院」を建て安置しました。この霊木の切り株から芳香を放ち続けたことから「花蔵院」、「千手院」を総称して根香寺と名づけられたといわれます。根香寺は後白河天皇の帰依も厚く隆盛を極めました。後に、高松藩主らにより再興され、この時に天台宗へ改宗されました。 寺には次のような伝説があります。昔、青峰山には人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が棲んでいました。村人は、弓名人山田蔵人高清に頼み退治してもらうことしました。しかし、高清が山へ入れど、なかなか牛鬼が現れません。そこで高清は根香寺の本尊に願をかけました。すると21日目の満願の暁に、牛鬼が現れ口の中に矢を命中。逃げる牛鬼を追うと2kmほど西の定ヶ渕で死んでいるのを発見しました。高清は牛鬼の角を切り寺に奉納。その角は今でも寺に保存されています。また牛鬼の絵は魔よけのお守りとして親しまれています。 見どころ 五大尊像: 納経所左。弘法大師の開基ゆかりの五大明王。(不動明王、降三世夜王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王) 牛鬼の像: 山門近くの茂み内。伝説にでてくる牛鬼が鬼気迫る面持ちで建っている。 万体観音: 本堂前の凹字型回廊に、全国の信者が奉納した約三万三千体の観音像が並んでいる。 |
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![]() ![]() 牛鬼の像 山門 本堂 万体観音の回廊 |
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![]() 大師堂 白候欅・樹齢1600年 五大尊像 牛頭観音 |
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第83番札所 神毫山 大宝院 一宮寺 宗派: 真言宗御室派 本尊: 聖観世音菩薩 開基: 義淵僧正 創建: 大宝年間(701?704) 真言: おん あろりきゃ そわか 歴史・由来 創建は、わが国に仏教が伝来して約160年後という歴史を誇ります。開基は、奈良仏教の興隆の礎を築いた義淵僧正で、当時は大宝院と呼ばれ、南都仏教の一つ法相宗の普及をはじめ、行基菩薩、良弁僧正らを輩出。和同年間、諸国に一宮寺が建立の際、行基菩薩が堂宇を修復し、神毫山一宮寺に改名されました。また大同年間、弘法大師が訪れ約106cmの”聖観音” 聖観世音菩薩を彫造し、伽藍の再興にあたり、この時に真言宗に改宗されました。 この寺も同じく、天正の兵火により灰燼に帰しましたが、中興の祖とされる宥勢大徳によって再興されました。また江戸時代に高松藩主により田村神社の別当を解かれました。神仏分離の200年も前の出来事です。 この寺の本堂左手には薬師如来が祀られる小さな祠があります。これは「地獄の釜」と呼ばれ、祠に頭を入れると境地が開けるという言い伝えがあります。一方、悪いことをしていると頭が抜けなくなると言われます。昔、近所で暮らす意地の悪いおタネばあさんは、「そんなことはない、試してみよう」を頭に入れると、扉が閉まり、ゴーという地獄の釜の音が聞こえ頭は抜けなくなりました。怖くなったおタネさんは、今までの悪事を謝りました。すると頭はすっと抜けました。それからおタネさんは心を入れ替え、親切になり、元気に長生きしたそうです。 見どころ 本堂: 元禄14年(1701)、十方施主により再建された。立派な楠に守られている。 一宮御陵・ 地獄の釜: (伝説の釜は、弘法大師が戒めのために作られたと伝えられます。 |
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![]() 山門 本堂 本堂の中 大師堂 |
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![]() 鐘楼堂 地獄の釜 釜に頭を入れ、悪心あれば抜けない |
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| 第84番札所 南面山 千光院 屋島寺 宗派: 真言宗御室派 本尊: 十一面千手観世音菩薩 開基: 艦真和尚 創建: 天平勝宝年間(749?756) 真言; おん ばさら たらま きりく 歴史・由来 屋島は高松市の東、標高293メートルの火山台地の半島で、那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場の史蹟で知られる。屋島寺はその南嶺にある。屋島寺は、天平勝宝のころ鑑真和上によって開創されたと伝えられる。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ5度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝5年(753)に苦難のすえ鹿児島に漂着した。翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。のち和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し初代住職になった。 弘仁6年(815)、弘法大師は嵯峨天皇(在位809?23)の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置した。以後、大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれている。屋島寺はまた、山岳仏教の霊場としても隆盛し、天暦年間(947?57)には明達律師が訪ねて四天王像を奉納された。現在の本尊・十一面千手観音坐像はこのころに造られており、国指定重要文化財になっている。やはり国指定重要文化財の本堂は鎌倉時代に造営されているが、寺運は戦乱によって衰退する。だが、国主・生駒氏の寺領寄進や、歴代藩主の援助により相次いで修築され、鎌倉・江戸時代の風格を現代に伝えている。 見どころ 梵鐘: 鎌倉時代の作で、「平家供養の鐘」といわれる。。 宝物館: 本堂左手前の近代的な美術館。本尊をはじめ、源平盛衰記絵巻物、「源氏の白旗」、屋島合戦屏風など豊富な寺宝が保存・展示されている。 蓑山大明神: 本堂の右。四国狸の総大将「太三郎狸」と呼ばれる土地の氏神。子宝、縁結びや家庭円満などの神さま。 |
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![]() 後の山は屋島 山門 本堂 大師堂 |
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![]() 梵鐘 国指定重要文化財 宝物館 一風変わった美術館 箕山大明神 四国狸の子宝・円満の神様 |
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| 第85番 五剣山 観自在院 八栗寺 宗派: 真言宗大覚寺派 本尊: 聖観世音菩薩 開基: 弘法大師 創建: 天長6年(829) 真言: おん あろりきゃ そわか 歴史・由来 屋島の東、源平の古戦場を挟み標高375mの五剣山があります。地上から剣を突き上げたような神秘的な山です。八栗寺はその8合目にあり、多くの遍路さんはケーブルカーで登られます。 天長6年、大師がこの山に登り求聞寺法を修めた時に、五振りの剣が天振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れました。そして「この山は仏教相応の霊地なり」と告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし大日如来像を刻み五剣山と名付けられました。 五剣山の頂上からは、讃岐、阿波、備前など四方八国が見渡すことができたので、もともと八国寺という寺名でした。 延暦年中、師は唐に留学する前に、再度この山に登りました。そして入唐求法の成否を占うために8個の焼き栗を植えられました。無事帰国し、再び訪れると、芽の出るはずない焼き栗が芽吹いていました。これが八国寺を八栗寺へ改名した由来です。この寺も長宗我部元親による八栗攻略の兵火により全焼しました。しかし、江戸時代に無辺上人が本堂(三間四面)、さらに高松藩主松平頼重が現在の本堂を再興、弘法大師作の聖観自在菩薩を本尊として安置し、観自在院と称するようになりました。五剣山は、宝永3年(1706)に、大地震を遭い、昔は五つの嶺のうち、東の一嶺が中腹より崩壊し、現在の姿になりました。 見どころ 聖天堂: 本堂の横に立つ聖天堂には木喰以空上人が後水尾天皇皇后東福門院から歓喜天が祀られています。商売繁盛や学業成就、縁結びにご利益があると言われ「八栗の聖天さん」として親しまれている。 中将坊堂: 本堂後方に建つ中将坊堂に祀られている中将坊は、さぬき三大天狗の一人。夜に山から下りてきて、民衆のために良いことをして朝帰る天狗。中将坊堂脇に下駄を奉納し翌日下駄が汚れていれば中将坊が働いてくれた印だとか。 大師堂横の多宝塔・鐘楼堂(寛政3年(1791)建立。鐘楼堂に歌人で書家の會津八一(あいづやいち・秋草道人)の作歌揮毫の歌銘のある美術梵鐘があります。「わたつみの そこゆくうをの ひれにさへ ひひけこのかね のりのみために」) |
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![]() ケーブルで山上へ 五剣山 聖天堂 本堂 |
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![]() 大師堂 中将坊堂 八十八ケ所石仏霊場 お迎え大師(後は屋島) |
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| 第86番札所 補陀洛山 志度寺 宗派: 真言宗 善通寺派 本尊: 十一面観世音菩薩 開基: 藤原不比等 創建: 推古33年(625) 真言: おん まか きゃろにきゃ そわか 歴史・由来 香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺。海の向こうはるかには、屋島や五剣山の稜線を望めます。開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「死度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています。 室町時代には、四国管領の細川氏の寄進により繁栄するが、戦国時代に荒廃。その後、藤原氏末裔、生駒親正(安土桃山時代、信長や秀吉などに仕える)による支援を経て、寛文10年(1671年)高松藩主松平頼重の寄進などにより再興されました。志度は、江戸時代の奇才平賀源内の故郷であり、近くに記念館があります。 見どころ 平賀源内の墓: 志度寺には仁王門前南側に、香川県さぬき市志度出身の、江戸時代の発明家・平賀源内のお墓がある。 仁王門(国指定重要文化財):門全長の突き当り、運慶の力作・仁王像と巨大わらじが迎えてくれる全国的にも珍しい三棟造りの堂々とした侘まい。本堂とともに讃岐藩主・松平頼重によりきしんされた。 閻魔像: 志度寺の演技によると、志度寺の閻魔大王は、本尊の十一面観音と同体とされ、頭上に十一面の仏面を頂く姿で、極楽往生・甦生の閻魔とされている。閻魔堂にあんちされている閻魔大王像は室町時代の中頃に等身大の像を造るように命じて自ら体を採寸して与え、「弥陀」という尼僧を甦生させたと伝わる。閻魔大王の顔は参拝する人のその時の心の在りようによって、怖く見えたり優しく見えたりすると言われている。 本堂・本尊(国指定重要文化財) 海女の墓: (能楽でも詠まれる藤原家にまつわる悲話の舞台、藤原房前が母のために建立したと言われる「海女の墓」が約20基並んでいます。海女の命日である7月16日には、「志度寺の十六度市」が開催されていた。(現在は中止)この日は年に一度、本尊十一面観音の御開帳を行っている。) 曲水式庭園・無染庭(むぜんてい): 室町時代の作庭で、天に向かいそびえる力強い石組が印象的。書院の正面に作庭された無染庭は重森三玲の作品で禅式枯山水庭の定型を採り竜安寺を感じさせます。 |
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![]() 五重の塔 仁王門(運慶作・仁王像とわらじ) 本堂 大師堂 |
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![]() 閻魔堂 鐘楼堂 海女の墓 大師堂平賀源内の墓(香川出身) |
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| 第87番札所 補陀落山 観音院 長尾寺 宗派: 天台宗 本尊: 聖観世音菩薩 開基: 行基菩薩 創建: 天平11年(739) 真言: おん あろりきゃ そわか 歴史・由来 明治維新以後、本坊は学校や警察、郡役所などの公共施設に提供された寺。地元では「長尾の観音さん」や「力餅・静御前得度の寺」として親しまれています。開創は聖徳太子という説もありますが、天平十一年に行基菩薩の説が一般的。行基がこの地を歩いていると道端に楊柳の霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫造し本尊としました。その後、弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法して国家安泰と五穀豊穣を祈願されました。その祈願は現在にも受け継がれ、毎年正月の七日には「大会陽」が盛大に開催されている。 唐から戻った大師は、再びこの地を訪れ「大日経」を一石に一字ずつ書写し供養塔を設立し、その時に真言宗に改宗。長きに渡り多くの天皇から帰依された寺でしたが、天正の兵火により、本堂以外は灰燼に帰します。江戸時代に藩主松平頼重が、堂塔を整備。その時に天台宗に改めている。 見どころ 本堂・本尊:天和3年(1683)藩主・松平頼重が堂塔を建立。本尊・聖観世音菩薩は幾多の火災でも難を逃れ秘仏として讃岐七観音の中でも当国一と指定。 静御前剃髪塚: 静御前が母の磯禅尼とともに得度した後、髪を埋めたと言われる塚 長尾天満自在天神宮: 平安時代に名印という名僧が居た。讃岐国司であった菅原道真公と親交厚く、延喜二年(902)道真公が九州へ左遷の時に志度浦にでて「不期天上一円月、怱入西方万里雲」の詩を贈って心を慰めた。公もまた詩と自画像を明印に与え別れを惜しんだが、後にこの故事により宝永7年(1710)天満自在天宮として建立、当山鎮守として祀られている。 大会陽力餅 |
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![]() ![]() 山門 本堂 大師堂 静御前剃髪塚 |
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![]() 本堂の彫り物 薬師堂 長尾寺のクスノキ 昼食はホテルTRESTA白山で |
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| 第88番札所 医王山 遍照光院 大窪寺 宗派: 真言宗 本尊: 薬師如来 開基: 行基菩薩 創建: 養老元年(717) 真言: おん ころころ せんだり まとうぎ そわか 歴史・由来 八十八ヶ所結願(けちがん)の霊場「大窪寺」。徳島県の県境に近い矢筈山(標高788m)の東側中腹に位置します。縁起によると、養老元年に行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を感得し草庵を建て修行をしたと言われます。弘仁6年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院にある岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊とされました。また唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納めて大窪寺と名づけ、結願の地と定めました。本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院があります。大師が本尊に水を捧げるために独鈷で加持すると清水が湧き出たと伝えられます。その水を薬とともに服用し、ご利益を受ける人も少なくない。 女性の入山が、早くから認められ女人高野としても栄え、一時は百以上の堂宇を誇っていました。しかし天正の兵火や明治33年の火災などで寺勢は苦難を繰り返します。しかし高松藩主の庇護や歴代住職の尽力により興隆。結願聖地の法灯を守り続けています。「同行二人」を共にした金剛杖などは、大師堂脇の寶杖堂(ほうじょうどう)へ奉納されます。これらは毎年春夏の「柴灯護摩供(さいとうごまく)」で供養されます。 見どころ 本堂: 礼堂と中殿、多宝塔の奥殿があり、奥殿に本尊・薬師如来と三国伝来の錫杖が安置されている。 大師堂地下内陣:地下は四国霊場八十八ヶ所の小さな本尊が祀られ、一周すれば参拝と同じご利益が得られると言われる。身体が不自由な人や時間のない人など誰でも四国霊場を容易に巡拝できる。内部にはお砂踏みができる道場がある。 |
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![]() 山門 本堂 大師堂 |
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![]() 鐘楼堂 88ケ所お砂踏み道場 結願修業大師像 奥の院 |
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| 第1番札所 竺和山 一乗院 霊山寺 へご報告詣り 宗派: 高野山真言宗 本尊: 釈迦如来 開基: 行基菩薩 創建: 天平年間(729?749) 真言: のうまく さんまんだ ぼだなん ばく 一番札所であるため、88ヶ所の長い遍路の旅に、途中で困らないよう、また、他人に迷惑をかけないよう、最初の札所では、準備するべき物品や、心構えをおしえてくれ、法話を初めて聴いた第一歩のお寺である。 今回は、コロナの所為もあって、約3年をかけて無事満願を果たしたお礼をこめて、最後に住職の法話を聴き、満願の証書をいただいた。 多宝塔: 応永年間(1394?1428)の建造で、五智如来像が祀られている。 |
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![]() 山門 本堂 本堂の奥に法話を聴くコーナーがある 大師堂 |
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![]() 3年前のお参りの第一歩 鐘楼堂 多宝塔 世界遺産の証 |
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| 2022年5月21日(土) (四国88ケ所霊場巡り) 高野山へお礼参り |
梅田7:10→花坂ドライブインで休憩(お土産を注文)→大門をバスで通過→中の橋駐車場→奥の院へ墓道を歩く→お供所→嘗試地蔵→「21日縁日行事・お坊さんの行列」、「生身供の儀式」→御廟橋→御廟・参拝→一の橋観光センターで昼食→金剛峯寺・寺内拝観・参拝→九度山・慈尊院参拝→高速道→6:10梅田帰着 四国八十八ヵ所すべての巡礼が終わり結願すると高野山へお礼参りに行くのが習わし。四国遍路は弘法大師の足跡を辿る旅であり、無事に八十八ヵ所を巡り終えた同行二人(⇒常に弘法大師と一緒)のご報告と感謝の気持ちを、今でも高野山で生きて瞑想を続けておられるとされる弘法大師にお伝えに行く。 |
88ケ所納経帳 (お礼参り)高野山奥の院と金剛峯寺(総本山)・慈尊院(大師様のご母堂の寺) |
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| 【奥の院】 奇しくも今日は弘法大師の月命日21日にあたり、運良く学徒僧やお坊様の行列に出会ったり、お大師様へお食事を運ぶ儀式に出会えた。 大門 : 高野山の総門で、重層の大楼門。門の両脇には阿形・康意、吽形・運長の作で高さ4,8mの金剛力士像がある。 御供所 : 弘法大師のお食事を作る台所。他に、納経所・護摩堂・寺務所・休憩所となる頌徳殿(しょうとくでん)などがある。 生身供の儀式 : 空海が入定(死)後もこの廟で瞑想を続けている信じられ、1200年間一日2回御廟へ食事が届けられている。御供所で調理されたお食事は甞試アジミ地蔵で味見され、箱に納めて二人の僧が運ぶ。先頭に維那ユイナ(僧侶の職名)が案内に立ち、御廟橋を渡って燈龍堂へお供えした後、読経し、御供所へ戻る。 御廟橋 : 御廟へと向かう参道最後の橋。服装を正し、一礼してから渡るのが参拝の作法。橋は36枚の橋板と橋全体を合わせて37枚と数えられ、金剛界37尊を表し、橋板の裏に梵字で36尊を表している。 御廟(燈龍堂) : 奥の院・御廟橋の正面にある檜皮葺・宝形造の建物。空海自らが場所を定め、翌835年3月21日に入定(死)。 最も尊いとされる?燭の燈籠が無数に天井より吊り下げられている。この燈籠堂の裏側に回り、お札を納札箱にお納め遍路満願のご報告をして最後のお参りを行う。弘法大師はこの燈籠堂の地下法場におられる。 水向地蔵 : 先祖を供養するために地蔵菩薩・不動明王・観音菩薩・聖観音など15体の金剛仏が並ぶ。 |
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![]() 花坂ドライブインで休憩 大門 バスで通過窓から撮った。中の橋から奥の院へ 一の橋観光センターで昼食 |
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![]() お供所(手前)・頌徳殿 水向地蔵 金剛仏15体 御廟橋から正面奥が御廟 御廟・燈龍堂 |
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![]() 大師様の命日21日は毎月行事でお坊様が集まられる。 甞試アジミ地蔵で味見の後、一日2回御廟へお食事が運ばれる。 |
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| 【金剛峯寺】 弘法大師が平安時代の初めに開いた真言密教の聖地で、「金剛峯楼閣一切瑜伽祇経」というお経より名付けた高野山の総称。現在は奥の院御廟を信仰の中心として結成された高野山末寺3600カ寺・信徒一千万の総本山である。元は、豊臣秀吉が母堂の菩提に寄進したが火災で焼失、現建物は文久3年(1863)に当時のままに再現されたものである。 蟠龍庭 : 1150年弘法大師ご入定御遠忌大法会の際に造園された石庭。雲海の中、向かって左・雄、右・雌の一対の龍が奥殿を守っている。 真然廟 : 1640年建立。当初は真然堂と称したが、発掘調査の際、納骨のご舎利器が発見され、改めて真然廟として祀られている。 茶の間 : 主に儀式・法会の控室として使用。2020年千住博画伯より断崖図の襖絵が奉納された。 土室 : 囲炉裏の間で、土室とは「土を塗り固めて作った部屋」の意味。厳寒の冬に保温効果を呈する。 |
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![]() 金剛峯寺へ入る 金堂(本堂) 蟠龍庭 真然廟に祀られている野菜 |
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![]() 茶の間 断崖図の襖絵 囲炉裏の間(土室) 寺の台所・かまど 鐘楼 |
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| 【慈尊院】 高野山真言宗、山号は万年山、本尊は弥勒(慈尊)仏。高野山の政所として創建された。国の史跡「高野参詣道」の町石道の一部として指定。本堂・弥勒堂はユネスコ世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部。弘法大師・空海の母・玉依御前が息子空海の開いた高野山を一目見ようと来たが、女人禁制の為麓の政所に滞在した。空海は母に会うために20数qの山道を月に9度(頻繁に)訪れたのでこの辺りを九度山という地名がつけられた。母堂は入滅して本尊に化身したと信仰され、慈尊院は「女人高野」とも呼ばれている。 高野山には犬の話が多い。そも、弘法大師が遣唐使の時に真言密教を広める拠点を決めるため三鈷杵サンコショを投げ、帰国して三鈷杵の落ちた場所を探して高野山中にいた時、狩場・丹生明神と黒白2匹の犬に案内され、高野山山上に霊地を見出したといわれる。 また、昭和60年頃慈尊院の近くに白い雄犬が住みつき、お遍路さんを町石道を6・7時間かけて高野山まで案内し、夜には慈尊院に戻る日々を重ねていた。この犬は死後、弘法大師の案内犬の生まれ変わりと言われ、慈尊院の境内の大師像の横にゴンの石像が載せられた。 本堂 : 重要文化財。鎌倉時代後期の再建。桁行三間・梁間三間、一重、宝形造・檜皮葺。 多宝塔(大日塔) : 和歌山県指定有形文化財。寛永元年(1624年)再建 弘法大師像&高野山案内犬ゴンの像 弥勒堂 : 国の重要文化財。母堂の死後、弘法大師は弥勒菩薩座像と御母公像を安置するため、弥勒堂を建てた。 |
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![]() 慈尊院の山門 多宝塔(大日塔) 本堂の中でビデオを見る |
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![]() 本堂の前は乳房型絵馬で溢れる 大師堂 大師と案内犬ゴンの像(左下) 弥勒堂 |
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| これでお礼参りも含めてすべての参拝が終了した。コロナの影響で、1年で終了するはずが何と、丁度3年の年月を費やした。ここに、一ケ寺毎に清筆された88ケ所全寺の納経帳を列挙して集大成してみようと思う。ほとんどが一泊二日の強行軍で、その場限りに忘れゆく中で、せめてお参りの証として各寺のことをもう一度心に刻んでおこう。 第1番 霊山寺 第2番 極楽寺 第3番金泉寺 第4番 大日寺 第5番 地蔵寺 第6番 安楽寺 第7番 十楽寺 第8番 熊谷寺 第9番 法輪寺 第10番切幡寺 第11番 藤井寺 第12番 焼山寺 第13番 大日寺 第14番 常楽寺 第15番 国分寺 第16番 観音寺 第17番 井戸寺 第18番 恩山寺 第19番 立江寺 第20番 鶴林寺 第21番 太龍寺 第22番 平等寺 第23番 薬王寺 第24番 最御崎寺 第25番 津照寺 第26番 金剛頂寺 第27番 神峯寺 第28番 大日寺 第29番 国分寺 第30番 善楽寺 第31番 竹林寺 第32番 禅師峰寺 第33番 雪蹊寺 第34番 種間寺 第35番 清瀧寺 第36番 青龍寺 第37番 岩本寺 第38番 金剛福寺 第39番 延光寺 第40番 観自在寺 第41番 龍光寺 第42番 仏木寺 第43番 明石寺 第44番 大宝寺 第45番 岩屋寺 第46番 浄瑠璃寺 第47番 八坂寺 第48番 西林寺 第49番 浄土寺 第50番 繁多寺 第51番 石手寺 第52番 太山寺 第53番 円明寺 第54番 延命寺 第55番 南光坊 第56番 太山寺 第57番 栄福寺 第58番仙遊寺 第59番 国分寺 第60番 横峰寺 第61番 香園寺 第62番 宝寿寺 第63番 吉祥寺 第64番 前神時 第65番 三角寺 第66番 雲辺j寺 第67番 大興寺 第68番 神恵院 第69番 観音寺 第70番 本山j寺 第71番 弥谷寺 第72番 曼荼羅寺 第73番 出釈迦寺 第74番 甲山寺 第75番 善通寺 第76番 金蔵寺 第77番 道隆寺 第78番 郷照寺 第79番 天皇寺 第80番 国分寺 第81番 白峯寺 第82番 根香寺 第83番 一宮寺 第84番 屋島寺 第85番 八栗寺 第86番 志度寺 第87番 長尾寺 第88番 大窪寺 第1番 霊山寺(ご報告参り)) 【お礼参り】→高野山・奥の院 金剛峯寺(総本山) 慈尊院(弘法大師の御母堂の寺) |
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![]() 第1番 霊山寺 第2番 極楽寺 第3番金泉寺 第4番 大日寺 第5番 地蔵寺 |
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![]() 第31番 竹林寺 第32番 禅師峰寺 第33番 雪蹊寺 第34番 種間寺 第35番 清瀧寺 |
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![]() 第36番 青龍寺 第37番 岩本寺 第38番 金剛福寺 第39番 延光寺 第40番 観自在寺 |
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![]() 第41番 龍光寺 第42番 仏木寺 第43番 明石寺 第44番 大宝寺 第45番 岩屋寺 |
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![]() 第46番 浄瑠璃寺 第47番 八坂寺 第48番 西林寺 第49番 浄土寺 第50番 繁多寺 |
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第51番 石手寺 第52番 太山寺 第53番 円明寺 第54番 延命寺 第55番 南光坊 |
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![]() 第56番 太山寺 第57番 栄福寺 第58番仙遊寺 第59番 国分寺 第60番 横峰寺 |
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![]() 第61番 香園寺 第62番 宝寿寺 第63番 吉祥寺 第64番 前神時 第65番 三角寺 |
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![]() 第66番 雲辺j寺 第67番 大興寺 第68番 神恵院 第69番 観音寺 第70番 本山j寺 |
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![]() 第71番 弥谷寺 第72番 曼荼羅寺 第73番 出釈迦寺 第74番 甲山寺 第75番 善通寺 |
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![]() 第76番 金蔵寺 第77番 道隆寺 第78番 郷照寺 第79番 天皇寺 第80番 国分寺 |
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![]() 第81番 白峯寺 第82番 根香寺 第83番 一宮寺 第84番 屋島寺 第85番 八栗寺 |
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第86番 志度寺 第87番 長尾寺 第88番 大窪寺 第1番 霊山寺 満願の証 |
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![]() (お礼参り)高野山奥の院と金剛峯寺(総本山)・慈尊院(大師様の御母堂の寺) 88ヶ所納経帳 |
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